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おにぎりの具で梅を選び始めてからが人生

25歳を超えたら、30歳を超えたら、〇〇歳を超えたら人生の曲がり角。そんな定説がこの世には沢山ある。
若い時はそれを言われるたびに、うるさいな、そんなわけないだろと心から反発していたが、最近あれは「呪いではなく、現場からのレポート」だったのだとよく思う。

今わたしは36歳なのだが、確実にここが分岐的であり、先輩達が言っていたのはコレか、と身に沁みる出来事が日々自分の身体に巻き起こる。奇しくも、あんなにうるせぇと思っていた先輩達との、共通言語を獲得してしまった。老いは誰にも訪れる。

もちろんイヤだし怖いけど、多分「不安を感じる」という機能もしっかり老いていってるので、思っていたりより落ち込んだりはしない。ウケる。ヤバい。そういう言葉で笑っていられる。おばさんという生き物は、自然と楽観的になり、ワハハのガハハと、よく笑うようになるものな気がしている。
それが女らしくないだの、可愛くないだの、そんなんだから嫁に行けないんだだの、知らない男性に言われても、小僧の甘噛みかジジイの遠吠えにしか聞こえてこない。じゃぁお前はなんなんだよと言い返せる。大抵のことがちゃんちゃらおかしいのだ。だって基本的に全部ウケるから。

身体がどんどん老いてチカラが減っていっているのに反して、精神はどんどん強くなる。女子高生の時が小鹿だとしたら、今のわたしは上杉謙信だ。戦もできるし、なんなら敵に塩も送れる。大量のクソリプがついてもミュート出来るし、読んでもそうですかとしか思わない。万バズしてもうるさいなと思ったら躊躇なく削除出来る。なぜなら、大抵のことはちゃんちゃらおかしいからだ。


当たり前に、落ち込む時もあるんだけど、それが永遠になど続かないことを知っている。


今日は低気圧だから元気出ないな。
満月だからイライラするな。
給料日だからめちゃくちゃ元気だな。
今日は天気がいいから嬉しいな。
そんなことの繰り返しで、人生は出来ている。

大好きな激辛ラーメンを完食できない胃袋になっても、道の駅で食べるソフトクリームの美味しさをまだ感じられる。
ストレスで暴飲暴食してやるぞと意気込んでカロリーというカロリーを爆買いしても、食べ切るまでに1週間かかっていて、全然暴飲暴食できてないのになぜか太ったりする、ジョジョと奇妙な体脂肪みたいな身体なのに、
ネイルを好きな色に塗れば、いまだにウキウキワクワク、簡単に嬉しい気持ちにもなったりする。
駅の階段を登ったら息切れしていて、ゼーハー言ってるくせに、改札の外で尻尾を振って誰かを待ってる犬を見たら、かわいー!と思って自然と笑顔になれる。

すべては糾える縄の如し。良いことも悪いことも長くは続かない。交互に来ることを知っている。たまに悪いことが急足で2、3個一気に訪れても、死にゃーしないさと思える。というか、本当にダメな時は死ぬから、死なない間は全部大丈夫なんだと、自分に対しては思える。
一種の諦めであり希望だ。
ダメなら死ぬし、ダメじゃないなら死なない。

この屈強な思想を他人に求めるのは暴論であり、決してしてはならないことだと思うから、他者にそうなれだなんて無茶なことは絶対に言わないけど。
自分が自分に、なんて言葉をかけていいかくらい、自分で決めていいのだ。

頑張れでも、負けるなでも、ゆるーく生きるぞでも、マイルドに暮らすでもいい。
自分の方針は自分で決めていい。
違うなと思ったら変えればいい。
気が変わった時も変えたらいい。

Do as you please.
お好きにどうぞ、なのである。


さっき、新幹線に乗る前に梅干しのおにぎりを買った。
今までだったらどの駅弁を食べようかなとか思ってたのに、胃袋が中年なのでこんな暑い日に駅弁など食べる気にならない。
なんか食べたいけど食べたいものがない。おにぎりにでもしておこうかな、で選ぶ具材が梅。


確信した。
たった今、味覚が中年の分岐点を超えた。

つまり、今から私はさらに強く、明るくなる。

歳をとることさえ娯楽だと思って、今日もたくさん笑うのみである。面白がって生きろ、それだけが我が軍の使命なのである。

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