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老いはホラー、人生はホーンテッドマンション
こんなことを認めたくはないが、最近老いを感じる。
顔のシミとか白髪はもちろん、
健康診断は当たり前のように再検査になるし、
気に入ってた服はなんとなく似合わなくなるし、
気持ちはどんなに変わっていなくても、身体の変化を誤魔化すことは決して出来ない。
むしろ、見て見ぬふりする方が最悪な気がするので、今日は最近のそんな心境を書いておこうと思う。
偶然行った美容院で、40代くらいのお姉さん美容師が、私に歳を聞いた。
マイルドヤンキーのようなカジュアルな明るさで「いくつなのー?」と言われたので、隠すことなく「35です」と答えたところ「えー?!まじ?!結構いってんねぇー!?笑」と言われた。
確かによく、35には見えないと言われるけど、年齢を答えて「結構いってる」と言われたのは人生初だったので、こちらも結構驚いてしまい、「やだー!お姉さんほどじゃないですよー!」と言いたいところだったが、これから髪を切る1時間ブレイキングダウンが開幕してしまいそうだったので、私はそっと口を閉じた。
本当は、目立ち始めた白髪の相談とか、ボリュームが無くなってきた髪の毛の相談とかしたかったけど、この人に聞く気にはとてもなれなかった。
傷つくことがあるたび、
誰かに言いたいけど上手く言うことが出来なくて、というか正直言える相手がいなくて、
自分の中の自分に話しかけることばかりしている。
そうすると、80歳のおばあちゃんみたいにすべてを悟った気持ちになって、
「何も慌てることない、一つ一つ自分の出来ることをやっていくだけじゃ…」みたいなことを言って、趣味である一日一善に興じたり、「焦ってもどうしようもないのじゃ、夜は考えるのをやめようねぇ」などとセルフよしよしに勤しむハメになる。
私の心の中には、確実に老婆がいる。
そしてそれは見方を変えれば「騒ぎ立てたところでなるようにしかならないよ」という悟りという名の、諦めの象徴みたいなもののように思う。
そしてその反動のように、
「うるせーーー!!誰の言うことも聞いてたまるかーーー!!!見てんじゃねぇーーー!!」という、小6のクソガキの自分も顔を出す。
なんでも諦めんじゃねぇ!だせぇ!うるせぇ!ババアにババアと言われたくらいでメソメソしてんじゃねぇーー!!!と彼はその辺で拾った木の枝を振り回す。
これはこれで私の本音だ。
ドブに捨てたはずの反骨精神が今でも時々顔を出す。勝手に捨てんじゃねぇ!クソが!!と顔面目掛けて唾を吐いてくるのだ。
老婆とクソガキが交互に現れるものだから、自分が大人なのか子供なのか、気持ち的には全然わからない。
そこへ新たに「おばさん」が登場したのだ。
新たなラベリングに、私の中の老婆もクソガキも大混乱である。
知らないことは調べるし、素直にわからないことは聞くようにしているけど、
それでもついていけない世界がすでに確実に存在していて、
機械に弱い訳じゃないから適当に操作すれば理解できると思っていたハズの家電も、プラットフォームも、今じゃ本気でわからなくてマニュアルを読むことが増えてきた。
新しいものに死ぬまで触れていたいと思っているのは本当なのに、
映画の一本を観る集中力がどうにも足りず、マイリストに見ていない映画がどんどん増える。
昔から苦手だった、人との会話やコミュニケーションに至っては特に顕著で、
久しぶりに会った友達と、何を話していいのかわからなくなってしまった時さえある。
これらはもう、隠しようのない「老い」そのものだと思う。
結婚して、子供がいたら、こういう内面的な自分の変化に気がついていても、日々の忙しさの前に悩みなどかき消されるのかも知れないが、
バツイチの私の部屋に話し相手など存在しない。だから自分と会話ばかりしてしまう。
部屋に家族がいないことが、こんなにも怖く、悲しいことになるなんて、考えたことがなかった。一人暮らしって、永遠に自由で気楽で最高じゃん!と思っていたのに、老いに気が付いてからというもの、足元を掬われるかのように恐怖が勝ってしまった。
どんなに仲の良い友達がいたって、それは家族ではない。
どんなに話を聞いてくれるインターネットフレンズがいても、それは大切なインターネットフレンズであって、決して家族ではない。
そんな当たり前のことに気がつくたびに、
じりじりと精神が削られる。
老いを一緒に笑い合えるようなパートナーがいたら、それは間違いなく幸せなことだと思う。
老いることは絶対悪いことではないけど、誰かと分かち合って、わかるーwうけるーwなどと言って笑い飛ばさないと、確実に心を蝕む要因になる。
家族がいないことは、私にとってはやはり大きすぎる問題のように思う。
気にしないタイプの人はそれでいいけど、私は家族に愛されて育った人間なので、やはり「家族」という枠組みに特別なものを感じてしまうのかもしれない。
この世で唯一、疑う必要がなくて
この世で唯一、無条件で愛し、愛せる存在。
そして、同じ屋根の下に暮らしている存在。
それが私にとっての「家族」なのだ。
間違った相手と別れたことには微塵も後悔はないが、悲しいことに、若くないと恋愛も簡単ではないのは事実だ。
ババアの恋愛は山登りの難所しかない崖登りみたいなもので、どんなに本人が純粋な気持ちで恋愛したとしても、周りからの目は相当痛い。
なんでアイツ、こんな冬の寒い時期に素手で山登ってんだ?という目で見られている気がする。世間からはもちろん、相手からだってそう見られている可能性がじゅうぶんにある。
周りを気にすることないだろ、と若い時は心から思っていたが、おあいにくさま、ババアは大人になってしまっているので、多少は周りの目も気にしてしまうのだ。というか、それを気にせずに恋愛を謳歌している子供おばさんが時々いるけど、それこそなんというか見ていて痛々しい気持ちになってしまう(ごめん)。本人は春のど真ん中にいても、慎ましく、品性ある立ち振る舞いをしていた方が年相応に美しく、そして正しい姿のように思ってしまう。
これが大人ババアの悲しい宿命なのである。
人を愛するというのは、相手を理解しようとすること、そのものだ。
たとえ恋人だとしても、相手と理解し合うための労力は1時間5000キロカロリーくらい消費する大仕事となるし、例えそれが楽しかったとしても、若い時のように盲目に信じて、無邪気に愛することはとても難しくなってしまった。
たくさん、たくさん傷付いて、「大人」になってしまったから。
この経験に価値はあるけど、悲しいことにそれらは恋愛対象にはなかなかならないし、なったとしても「これから一生を歩む相手」として選んでもらえる確率はかなり低いだろう。相手が「ジジイ」であってもだ。
選んでもらうために無理するのも、私はとてもじゃないけど出来ないので(恋愛のために這いつくばって自我を捨てるほどの頑張る体力も気力がないので)、婚活しようという気持ちはさらさらないが、
これから先、家族がいないという人生を歩むことを想像すると開始5分で気が滅入る。とてもじゃないが未来を直視することができない。お先が真っ暗すぎて、ここはホーンテッドマンションか?と思う。でも100人目の住人として迎え入れてくれるなら、この部屋に孤独のまま過ごすより幾分気が紛れる気さえする。早く招待して欲しい。築年数古めの集合住宅暮らしも、ババアスキルが発動して、もしかしたら楽しめるかも知れない。
おばさんである以上、せめて人に笑われない程度に知性と品格のあるババアでありたいと思う善良な心と、
うるせ〜〜死ね死ねほっとけどうせ誰も責任取れね〜くせに偉そうに評価してくんじゃねぇ黙れクソが、猿山に帰ってピーナッツ食ってろと思うロックな心、
どっちも35歳、わたしの本当の気持ちだ。
若い時は考えもしなかったことが、本当に自分の身に起きる。
30くらいの体力気力のまま歳を取るのだと想像していたから、自由!最高!楽しいことばっかりじゃん!!などと甘く見ていた気がする。
人によると思うが、35になってからガタンと体力も気力も減った。多分この調子で減っていくと60過ぎて働き続けるのも、60まで独り身でTwitterばかりやって暮らすのも、かなり無理があると予想される。対策を考えないと非常にまずい、と体感する。
老いは、思っていたよりかなりホラーな現象なことだけは間違いない。
今日だけは、それを素直に書いておこうと思う。
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