介護職員として成長を感じた日
今日は介護職員としての成長を感じざるを得ない日になった。
「おじぃのキ○タマ」を触ることに全く抵抗を感じなかったからだ。
介護職員になって2年。これは大きな成長だ。
数え切れない回数と多く人の入浴介助をしてきた。お風呂への誘導から着脱、洗髪から洗体・肛門洗い、排尿・排便処理もそつなくできる。
ただ、キ○タマをはじめとした股間周りはとてもデリケートな部分であるため、サンクチュアリとして精神的な距離と物理的な距離を保ったまま、その距離を打開できずにいた。
打開できたのは、今日、個浴を担当した「おじぃのキ○タマまわり」が、汗疹で爛れていたからだ。
入浴を終えて衣類の着衣をお手伝いしている時に発見した。おじぃの前に座りリハパンに足を通している時に、僕はキ○タマと真正面から対峙する。
おじぃが腰を浮かせて立ち上がり、僕はひざまづいてリハパンを上げる。そのとき、おじぃのキ○タマまわりがひどく爛れているのを発見した。こりゃアカン。
そう思うと、間髪入れず「ちょっと、キ○タマ見ていい?」と、キ○タマをすでに左手で持ち上げていた。陰嚢ではなくキ○タマだ。躊躇はない。おじぃも無抵抗。信頼関係がある。個室にはおじぃと僕のふたり、男同士だ。問題なかろう。かゆみ留めを塗ってキ○タマを定位置へ戻した。
誤解を生まないように言っておく。もちろん衛生手袋はしている。さっきも言ったが股間はデリケートな部分なのだ。素手で触っていい代物ではない。生命の神秘を生んできた家宝でもある。
この手の状況、熟練の介護職員からしたらなんのことはない些細な日常かも知れない。しかし介護経験の浅い僕には、成人式のような晴々としたそれでいて厳かな儀式なのだ。
いやいや、逆に自分のキ○タマを持ち上げられていることを考えてほしい。
ちょっとも顔色を変えずに持ち上げられることの敗北感も想像してみてほしい。この一連の状態がどれほど緊張感があるかを分かってほしい。
おじぃの背中からも、おじぃキ○タマからも、本当に教えられることばかりだ。
いや、キ○タマぐらい自分で持ち上げられるか。後の祭りだ。
自分でできることを手伝ってしまう介護職員は3流。猛省せねば。次のキ○タマはない。
だけれども今日は、ウイスキーのストレートを味わいながらチビチビ飲もう。祝杯として、そして昨日の自分と「チン」とグラスを鳴らして。