【生活は患い】神聖なる新約と思考とアニミズム
英語、ポルトガル語、スペイン語が入り交じるイタリア語の授業になんとか慣れてきました。まぁ、そうはいっても日本語にはない概念の単語や使い分けには疲弊していますが。
本日は、学校の有料プログラムであるパドヴァ市内の散策(という名の観光)に参加してきました。そこで、ふと改めて思い起こされることがあるったのでここに書き始めました。
今回は、やや宗教的な観点に私見が入り交じりますので、厳格なクリスチャン様や神道の方に不快な思いをさせてしまうかもしれないので、自己責任でお願い致します。悪しからずに。
さて、これだけ前置きを重ねたのは親にも言ったことがない僕の宗教観をテーマにしたいからです。
まず、今日の感想からでも書きましょうか。街全体がひとつの史跡のようなパドヴァは兎に角歴史ある建築が多い!硬い石畳を4時間ほど歩き回り、メジャーなところは見学してきました。疲れた……
特に印象的だったのは、やはり街の守護聖人聖アントニオの聖遺物が安置されているサンタトニオ聖堂。
訪れた時間が丁度ミサの最中で、荘厳なパイプオルガンの響きの中、熱心な信者さんが大勢祈りの最中だった。
聖アントニオの聖遺物を流れに沿って見つめていた時、ふと涙が零れた。後ろから聞こえるミサの音が心を洗っていく気がして、今すぐにでも共に跪きたい衝動にかられた。
ここで僕の信仰を明かしておこう。生活習慣や思想の根本は神道的で全ての物へ神の欠片が潜み、生きている今に感謝を抱いている。葬式も神道式が好ましい。しかし、この世の創造主の神は動かぬ真理として唯一存在しており、実は我々が生きていく事は常に神との約束を二度と違えぬために監視されていることであるし、背負った原罪を償い続けなければならないと思っている。
つまり時に応じて、4:6と6:4で揺れ動いている。だから僕はいつまで経っても洗礼を受ける勇気が湧かない。自分の中では神道とキリスト教はきちんと整理されて納得出来ているものの、キリスト教の教えに背いているのではないかという、そのステージでの恐れがある。
だから僕は、今日も立派ではないネオクリスチャンとしてアニミズムを大事にする神道者として、
心が楽になるように自分が信じる唯一神と神の欠片に祈って生きようと思います。