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大切なカケラを、なくすこと。

本当に大切なものは、失ってはじめて気付く。

どれほどの歌手が、詩人が、作家が、この言葉を主題として作品を作っただろうか。

なんど形を変え、語られようとも、私たちは失うまで大切なものに気付けない。だから、この言葉を呪文のように繰り返すのだ。

他の人への、そして未来の自分への警告として。


フランスの世界遺産、ノートルダム大聖堂での火災のニュースを聞いたとき、私の友人は「早くヨーロッパ旅行に、行っておけばよかった!」と言った。二人でヨーロッパに行きたいと話しつつ、旅行の計画をどんどん後回しにしていたからだ。

しかし、私はふと思った。もし一ヶ月前の春休みにヨーロッパ旅行をしていたとして、今と同じ気持ちでノートルダム大聖堂をみることができただろうかと。

一週間前にノートルダム大聖堂を見に行った人の中で、今日大聖堂が焼けてしまうと知っていたなら行動を変えた、という人はどのくらいいるだろうか。

知っていたなら、もっと長く滞在した、より多くの写真を撮った、細部まで目に焼き付けようとしたというように。きっと、全く行動を変えないと宣言できる人は、ほとんどいない。

別に、その人たちが悪いというつもりはない。むしろ当たり前だと思う。

旅行に行けば、とりあえず有名な場所に赴くだろう。京都に行けば、とりあえず清水寺を訪れる。その熱量を、一週間後に燃えてなくなってしまうと知っているときと同じにしろなんて、無茶な話だ。

私たちは、明日も会えると思いながら友人に手を振るし、寝不足の苦しさなんて忘れて夜更かしをする。


もう諦めるしかないと思うんだ、それは。

幸せなことに、大抵の人は明日なくなったら困るものに囲まれ、明日も会いたいと思える人に囲まれている。そんな世界を生きていたらきっと、失ってはじめて、大切なものに気づくしかないんだと思う。もっと大切にしておけばよかったって、後悔するしかないんだと思う。

でもその後悔は、他の手元に残った大切なものに気付かせてくれる。

失ったというより、欠けたと考えてみてはどうだろう。無くしたピースはとても価値がある、他のものには代えられないものだったかもしれない。それでも、周りを見渡せばきっとまだ残っているのだ、大切にすべきものが。残った99%を大切にするために、私たちはどうしても1%を犠牲にしなければいけないのだ。

私はどうせ、また忘れる。次どこかに観光に行くときには、またなんとなくで有名な場所を回っているかもしれない。それでも、また違うものを犠牲にするまで、きちんと大切なものと向き合っていようと思う。

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