「才能がないから」の言い訳をやめた、高一の夏のはなし。
才能がないから、という理由で何かを諦めなくなったのは、高1の夏だった。
きっかけは、才能について書いた本でも、励ましの歌でもなく(ある種歌なのだけれど)、たった一つの小さな経験だった。
曲を、作ったのだ。
ある日、同級生の友達が、急に音声データを送ってきた。
20秒ほどの。
再生したら、たどたどしいピアノの音が聞こえてきた。
「メロディを思いついたんだよね。歌詞つけてよ。」
本人は、冗談だったんだと思う。ただ、閃いたメロディを誰かに聞かせたかったんだと思う。
それでも、私は音の数を数えて、一音に一文字が当てはまるように言葉を選んで、歌詞をつくった。
「え、本当に作ったの?めっちゃいいじゃん!じゃあ、本格的に曲を作ろうよ。」
親が100点を取った子供をほめるかのように、私が即席で作った歌詞をほめてくれた。ほめられたからか、元からかは覚えていないけれど、私もその歌詞を気に入った。
数日後、一曲分のメロディが送られてきた。先日の部分は、サビになっていた。
サビではただ言いたいことを言ったけれど、一番も二番もある一曲分の歌詞となると、そうもいかない。
とりあえず、「あなた」に当てはまる男子と、その彼に片想いをする女の子を思い描いて、ストーリー仕立ての歌詞を書いた。
そして、音符を入力すると歌声が作れるボーカロイドのソフトを中古で見つけ、二人で割り勘して買った。
今思えば、なんてありきたりな歌詞だろうと思う。
それでも、ソフトの再生ボタンを押して、軽やかに自分が書いた歌詞を歌い上げるボーカロイドの声を初めて聞いたとき、感動した。
人生で初めて、何かを一から作り上げた瞬間だったと思う。
あのときの感動は、忘れたことがない。
とか、言えれば素敵だったのだけれど。
実は、つい最近まで、私が才能や天才という言葉を信じていないのは、本の影響だと思っていた。
「アイデアは既存のものの組み合わせであって、真新しいものを一からひらめく必要はない」と前書きで断言している本は、世の中に溢れている。そしてそんな本が紹介するアイデアの出し方は、実際どれも使える。
だから最近は、「クリエイティブと聞くと、天才だけができる仕事だと思うかもしれない」といった前置きが出てくると、「違うんだよね、知ってる知ってる。」とおこがましくも、勝手にツッコミを入れるほどにまでなった。
それほどに、コピーライティングや企画についてのビジネス本には、「クリエイティブ≠天才だけの仕事」ということが繰り返し書かれている。
しかしよくよく考えれば、それらの言葉だけで、漠然とした「天才」という神のような存在への印象を変えるのは、難しかったと思う。
人より絵がすこし得意だったから、中高の選択授業では美術を選んだ。でも、休み時間を費やして描き上げた私の油絵の成績は、授業時間内にささっと描き上げた友達の作品に敵わなかった。
授業中に暇になって、ノートの隅に落書きをしようと思ったけれど、お手本なしに描き始めたネコもミッキーもいまいちで、ぐしゃぐしゃっと上から塗りつぶした。
そんな生々しい記憶は、私の心に「才能がない」の五文字を深く刻んだ。
私にとって、その傷を癒すのに必要だったのは、100の成功者の言葉よりも、たった一つの成功体験だったのだ。
それも、大金を稼いだわけでも、有名になったわけでもない。何かを作り上げたというだけの、小さな成功。
きっと、0から何かを生み出すタイプではないと信じ込んでいた私が、自分からすすんで歌詞を書くことはなかっただろう。
歌詞を書かなければ、言葉が好きということにも、なにかが生み出せるかもという可能性にも気付かず、なにか別のものを目指す私になっていただろう。
あの小さなチャンスをくれた友達と、たまたまそれを拾った私。才能への幻想なんて、そんな小さな偶然で壊せるものなのだ。
そんなことを、ダジャレが好きすぎて、趣味でダジャレを広めるレコードを作ったという方とお話しして思った。
好きを形にすること、形にするための技術を持つこと、そして技術がなくてもとりあえず一歩進んでみることは、自分を変えるための一歩に、きっとなる。今でも、今だからこそ、強くそう思う。
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