紅の豚が美しい生き方で溢れていた。
今までずっと幸せに生きたいと思っていたけれど、最近、美しい生き方もいいなと思い始めた。
この美しいは、かっこいいと近いニュアンスだと思う。自分を持っているとか、したたかだとか、因数分解するとそんな要素が含まれている。
前に一度見て、豚さんがかっこいいことだけ覚えていた紅の豚。今日改めて観て、登場人物がみんな美しい生き方をしていると思った。
主人公のポルコはもちろんだけれど、ヒロインのフィオとジーナもとにかく美しいのだ。
美しい生き方で言うと、友人が前にしていた話を思い出す。
俺は、いざ選べと言われたら彼女を助けて死ぬことを選ぶと思う。でもそれは、彼女が好きだからとか、人を助けるのが正しいとかの話ではなくて、ただそれが俺の美学だから。
紅の豚の登場人物やこの友人に共通しているのは、自分中心の優しさだと思う。
自分以外の誰かのために生きることが、心から自分の生きがいになったとき、人はその生き様に美しさを感じるのではないだろうか。
だから、彼女の代わりに死ぬことが彼の一番の幸せになるし、好きな女の子と離れて暮らすことが、フィオ(もしくはジーナ)の幸せを願うポルコが選んだ道になった。
哲学者のAlexander Nehamasも、美しさや愛について書かれた本の中で、愛や友情をこういう気持ちだと表現している。
You are no longer merely a means to my own ends, which are already established without reference to you, but someone whose own ends can become mine- an end in yourself.
私なりに訳すと、「あなたはもう、ただ私が自分の望みを叶えるためだけの手段ではなくて、あなたのゴールが人生そのものが、私のゴールであり人生だ」。
つまり、私が自信を持てるからこの人が好き、私が欲しいものをくれるからこの人が好きと思っているうちは、まだ自分のために相手を使おうとしている。
でも、相手の望みが自分の望みになって、その人の人生を丸ごと受け入れたいと思ったとき、その思いは愛や友情と呼べるものになる。そしてその愛する人のために生きる様に、私たちは美しさを感じる。
とはいえ、一緒に映画を見ていた友達が「こんなの自分勝手の自己満足よ!最低!」と罵倒しまくっていたのも、正しい。
紅の豚でも、主人公のポルコを思い続けるジーナは、人の心配をよそに因縁の相手への伝言を頼むポルコに「人を伝言板か何かと思ってるの?いくら心配しても、あんた達飛行艇乗りは 女を桟橋の金具くらいにしか考えてないんでしょう。」と怒ったり、「マルコ聞いてる?あなたもう一人の女の子を不幸にする気なの?」と煽ったりしている。
それでも、ジーナそしてフィオもまた、ポルコの幸せになって欲しいという思いを受け取り、彼のために自分の思いをそっと胸にしまって生きている。
もちろん、男性の意図を汲んで、自分の気持ちを押し殺している女性が美しいのではない。
モテるにも関わらず自分が一番惹かれる男性を選び愛し通したジーナ。若さや性別のハンデを熱意で乗り切り、仕事にも好きな人にも素直な思いで向き合い続けたフィオ。
ふたりとも、ただポルコの言うことを聞いてるのではない。ポルコと同じように、相手のために生きることを、自分で選んでいる。
女性がどんどん強くなっている今のご時世、相思相愛の男性のことを思い、別れを告げてしなやかに生きる美しい女性もどんどん出てくるのでしょう。
恋愛に関わらず、自分がしたいことを見つけて、それを選ぶ勇気と自信をもった、美しい人になりたいと改めて思った映画だった。
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