幸せだって言ってる人を、祝おう
人は、名付け親になりたがる。
自分がつけた名前を、みんなにも使わせたがる。
結婚を幸せなものと名付けたら、それを他のみんなにも使ってもらおうとする。そのために、独身を不幸せなものと呼ぶのだろうか。
そんなことを、このnoteを読んで思った。とってもとっても良いnoteだった。
たしかに、私たちには目の前のものを好きに呼ぶ権利がある。
道端に咲く黄色い花を「サリー」と呼び愛でてもいいし、育てているトマトの苗を「とまちゃん」と名付けても良い。
人がだれかに抱く思いを、恋でも、逃げでも、責任感でも、甘えでも、勘違いでも、歪んだ愛でも、真実の愛とでも。
誰かの人生を、悲しい人生でも、つまらない一生でも、価値がないでも、小説のようでも、成功でも、幸せな人生とでも。
好きなように呼べばいい。
でも、それは自分の心の中での話だ。
通りがかりの子供に勝手に「太郎」と名付けても、彼には親が付けてくれた本当の名前がある。
同じように、誰かの人生、気持ちに、本当の名前をつけていいのは、本人だけだ。
本人が幸せな人生だと呼ぶのなら、それは幸せな人生であり、他人がとやかく言うことではない。
それがわかっていても、私たちは自分がつけた名前に自信が持てない。
好きに名付けて良いと言われたけれど、最もふさわしい名前を選べているのだろうかと、不安にならずにはいられない。
「自分の幸せを生きているんだから、それでいいじゃん」と言ってくれる人もいる。ありがたいし、そうかもしれない。そうかもしれないけど、私も揺らぐ。日々揺らぐうえに、幸せだって言ってるのに「それは勘違いだ」とか「無理してるんだね」とか「人の幸せは人それぞれ」とか言いながら気まずそうにされたら揺らぐ。「3年後に手遅れになっても知らない」と誰もわからない未来を人質に取るのは卑怯で最悪。
その通りだと思った。そして、ここまで言い切れる、その強さがすごいなと思った。
飼い主が「タマ」と名付けた猫でも、みんなが「ミーちゃん」と呼び続ければ、本人はミーちゃんが自分の名前だと思うかもしれない。タマと呼んでも、振り向いてくれなくなるかもしれない。
そうなったら、飼い主もミーちゃんと呼ぶしかない。「タマ」が、どんなに心を込めてつけた名前であっても。
物事を好きに捉えていい自由は、自分の見方を押し付ける自由ではない。
だから、本人がつけたものと違う名前で呼び続けることは、幸せだと思っている人に勘違いだよと告げることは、間違っているのだ。
私もときどき忘れてしまうけれど、他人の幸せは、自分の不幸ではない。他人の不幸は、自分の幸せではない。それなら、みんなで幸せになれる道を探そうよ。
人それぞれの幸せがあるのなら、それを認め合おう。
幸せになるのに祝福がいるのなら、みんなで祝おう。
「おめでとう。」
「ありがとう。」
「幸せなんだね、よかったね。」
あなたが嫌いな人と名付けた相手にも、言ってしまえばいい。
「24時間365日幸せだと誓える人間なんていない」としても、24時間365日誰かの幸せを祝う人間にはなれるはずだ。そしてきっとそれは、あなたが幸せだと誓える日を、一日くらい増やしてくれる。
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