見出し画像

答えがない自分探しは、終わりにしよう。

私らしさってなんだろう。私の個性って何だろう。

これらは悩みの定番だけれど、本当の自分なんて、きっとどこにもいない。

なぜなら、個性は作るもの、もしくは気がついたらできているものだからだ。


中学の同窓会で久しぶりにあった友達に、「そのしっかりしているところ、昔から変わってないね〜」と言われた。

でもその「しっかりしている」というのは、元から決まっていた個性ではなくて、たくさんある特徴の中から最終的に残したもの、もしくは残ったものだ。

小学生の頃には他にも、自分中心なところ、友達思いなところ、ピンクが好きなところという特徴があったかもしれない。

でも時間を重ねる中で、意図的に自分中心な性格を直したり、自然とピンクが好きじゃなくなったりする。

それらの、いつの間にかお別れした私の特徴は、別に「しっかりしている」という特徴に比べて劣っていたとか、もともと重要な個性の一部ではなかったという訳ではない。

生きていく中でさようならした私らしさの一部も、何となく残った、もしくは意図的に残した私らしさの一部も、たしかにかつての私を構成していた。ただ、片方は私の中からいなくなって、もう片方は残っただけ。

つまり、私らしさに正解なんてない。ただ結果的に残したもの、残ったものをその人の個性と呼ぶのだから。


だから、私たちが考えなければいけないのは、どれが本当の私か?ではない。どれが私のなりたい私か、だ。

しっかりしているという私の特徴があったとして、それを残すも、変えるも、自分次第だ。

どんな特徴にも良いところと、悪いところがあって、正解なんてない。

しっかりしているところを残して、慌てている人をなだめたり、困っている人をサポートできる人になってもいい。

しっかりしているところとバイバイして、なんとかなると楽観し、自分のやってみたいを大切にする人になってもいい。

なりたい自分に、なればいい。それが本当のあなたになる。


長く付き合うほど、友達を「こういう人」と説明できないのも、決まったその人らしさなんてないからだと思っている。

五年前と今では、変わった部分もあり、変わっていない部分もある。気分によって、話す相手によって、今の「その人らしさ」すら変わる。

だから、優しい子、気分屋、怒りっぽい、みたいに、一単語や一文で表現することに抵抗を感じる。

だって、完璧に優しい人なんていなくて、優しくもあり、意地悪でもあるのが普通なのだ。ただその頻度だったり、誰に対して優しいかだったり、いつ優しいかだったり、細かい条件のバランスを感じ取って、私たちはその人らしいと呼ぶのだろう。そのバランスだって、もちろん移りゆく。


そう考えると、「あなたらしくない」という表現は、やっぱり変だなと思う。私らしさなんて、もともとないのだから。

右であれ左であれ、どんな私であれ、なりたい自分になるために進んだその先に、私らしさがあるだけだ。

同じように、誰かに対して「あの人らしくない」と思いそうになったら、おっと危ないとブレーキをかけよう。どこに進んでも、その人はその人なのだから。

そして理想を言えば、どんな選択をしたとしても、最終的なその人らしさを受け入れられたらいいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?