尊敬する人の、昔話。

大人になってから出会う人のほとんどは、完成された人たちだ。

一緒に成長した小学校や中学校の友達と違って、もうすでにたくさんの経験と成長を重ねて「わたし」が出来上がった状態の人たち。


お説教をしているお母さんにも、反抗期真っ只中の高校生だった時代があった。

私には名前すら聞き取れない哲学者の考えを説明しているおじいちゃん教授にも、締め切りギリギリまで宿題をサボって徹夜した大学生時代があった。

それは理解はできるのだけれど、どうも想像ができない。同じ立場の同期や友達ならまだしも、先生や上司となればお手上げだ。


最近、卒業間近の四年生の先輩にインタビューをするという企画を進めている。昨日、最後の三人目の先輩の話を聞き終えた。

インタビューをした先輩たちも、そんな「完成された人たち」だった。


今年卒業する先輩たちは、私が初めてこの大学に足を踏み入れたとき、新三年生だった。

もう二年間もこの大学で過ごした後だったので、同級生からの扱われ方も、専攻も、それぞれの大学の使い方も、決まっていた。

例えば昨日インタビューした先輩でいうと、私がはじめましてと挨拶したときにはもう、元気ではっちゃけている、社会学が大好きな人だった。大学のあちらこちらに知り合いがいる、社交的な先輩だった。そういう人として、私は受け入れた。


でも、大学生活を振り返ってもらって、私と出会う前の話を聞くと、そんな先輩はつい最近出来上がったばかりだということがわかった。

一年目は、新しい環境に慣れるので精一杯で。

周りに助けられながら、いろいろなものに挑戦して少しずつ学びを重ねて。

二年目は周りがどんどん夢を見つける中、大学で何をすればいいのかわからず焦って、迷って。

こんなの、今の私と、私のここまでの大学生活と、全く一緒じゃないか。


自分の卒業研究の内容を、目を輝かせながら説明している、

社会学が大好きで、将来は「世界中の人が明日の朝ごはんのことを考えながら眠れる世界にする」と語る、

私のずっとずっと先にいるような先輩は、たった二年前まで私と同じ場所にいた。

それが、なんだか変で、可笑しかった。月の裏側と同じくらい、私には想像もできないことだったから。


関係が許すのなら、こんな風に尊敬している人の昔話を、ゆっくり聞く時間をとり続けたいと思った。

焦って進まなくていいということを再確認できるし、何より目の前の「完成された人」が、どんな紆余曲折を経て、何によって形作られたのかを知るのって、とっても面白いことだから。

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