墓場寄席 中編
誰も居ない筈の場所で声が聞こえてくる。自分以外の。
それだけでも気味の悪さは格別なのに、
その場所が墓場ときたもんだから、
こりゃあもう小便漏らしてでも逃げ出すしかない。
朝、
布団をギュウギュウに巻き付けた状態でにぎり目が起きると、
兄弟弟子の一人が、
「おいお前、布団は大丈夫か?
漏らしてないか確かめてから起きて来いよ、
俺は優しいから先に部屋から出てってやるわ」
と鼻を摘まむ仕草で笑いながら出て行った。
言われてみれば、と手をまたぐらに伸ばしてみると、
幸い寝小便はしていない。
遠くで幽かに聞こえるニワトリの鳴き声を聞きながら、
にぎり目はようやく、世間は無事に朝を迎えたのだと悟った。
いや、恐ろしい夜だった。
墓場から霊か何かが布団まで追っかけてきて、
「おい、喰っちまうぞ」と布団をひっくり返されるのでは、
そう心底怯えながら包まっていたが、
その実、恐怖とは眠気よりも弱いらしい。
今夜は絶対眠れないと思っていたが、
気付けば見事に布団の中で眠りこけていた。
布団を片付け身支度をし、
廊下を歩く兄弟弟子に聞いてみる。
あのう、昨日の夜、変な声を聞きましたかね。
「声?どんな声よ。
笑い声?そんなの聞こえなかったよ。
男だった?それとも女?え?判らない?
いやぁ、お前、それはホンモノだねぇ、きっと」
これだぞ、
と言って兄弟子が両手を上げて手首から先をだらんと下げ、
俺は知ーらない、巻き込まれたくないからオサラバ、と、
その兄弟弟子は、まぁ嫌な言い方を残して去ってしまった。
そんな事を言われたにぎり目の腹の中は当然落ち着かない。
すっかり明るい朝なのに、
ずっと背中の方から、何かが付いて来てる気がする。
居るのか?誰だよ、おい――。
首を二度も三度も回して振り返っても、
見えるのは壁の木目か、柱の木目。
「なぁーにしてんの」
いつもはない変な動きに、
一番年の近い兄弟弟子が声をかけてきた。
「なんか、昨日夜中に騒いだんだって?
どうした、一体。」
「いや、それがさぁ、は――」
墓で落語を一席披露したら笑い声が。
と、言ってしまうのは、いや、ちょっと待てよ。
にぎり目の開いた口がピタリと止まる。
「は?」
「いや――小便を……」
「しょうべん?」
「……してたら、こう、背中から声が聞こえて……。」
「ええ?本当か?おおコワ、呪われてるぞ、きっと」
「けれどけれど、何かの聞き違いだ、きっと」
朝食、座禅、諷経(ふぎん)、掃除から、
今日も変わらぬ一日の流れが始まる。
その日々の作業の隙間から、
時たま幽かに声が聞こえてくる。視線もだ。
霊ではない、亡者でもない。人だ。
兄弟子達にとって恰好の話題になった昨晩の事。
にぎり目の方をちらりちらりと見ながら口元に笑みを浮かべる。
遠くて声が聞こえないにしても、言ってる事は大体わかる。
尾ひれも付けて好き勝手言ってるのだろう。
にぎり目にはもう慣れた事であるから、特に気にもしない。
そう、もう外から来る悪餓鬼達に、散々そういう事はされている。
寺のキッチリした時間が済み、
各人思い思いの場所へ赴く。
仏堂で静かに佇む者、
畑の世話をまだ続ける者、
広い境内で遊ぶ者。
にぎり目はいつもの階段に腰かけ、
外の子供達と混ざって遊ぶ小坊主達をじっと見ていた。
自由な時間に限って、経つのは早いもので。
気付けば空は夕暮れ、親が呼びに来る子供も居て、
賑やかだった境内もすっかり静まり返って、
各々布団を捲って潜り込み、
今日も一日の幕を下ろす時が来た。
筈だった。
部屋の人間がみな寝息をかく頃、
一人、物音を立てずに寝床を抜け出し、
そろりそろり、と寺の中をどこかへと歩いて行く。
本堂の裏に回り、夜は誰もが近寄るのを嫌う墓場へ――。
「えぇ、
和尚の許しを頂ければぁ、
こちらにて毎度ばかばかしいお話をさせて頂きたく……」
にぎり目だ。
昨日情けない悲鳴を上げて逃げ出した、にぎり目だ。
あの時は鬼に頬でも舐められたような怖がり方だったのに、
打って変わって今日はどうした事だ、
今日一番落ち着いた様子で立っている、この夜の墓場のど真ん中。
「…なんだこの徳利は?
ええ、二本の徳利なんです。
――そのほうカステラと申したではないか!
徳利の中に入るカステラがあると言うのか!
――ええその…つい近頃新しく売り出した…、
水カステラというもので!」
くすり、くすくす――。
ああ聞こえる、聞こえるぞぉ。
誰も居ない筈の墓場から、笑い声が聞こえやがる!
にぎり目が今宵も語るはシノスケ仕込みの面白噺、
それもにぎり目自身、腹を抱えて笑い転げた逸品だ。
噺はいよいよ熱を増し、にぎり目も一層笑わそうと声に色を入れる。
ふふふ、くっく、と、墓の何処からか、
姿の見えない誰かが笑っている。
そう、笑っているのだ。
昼間の境内でシノスケの真似をしたのは、
何もガキ大将やお調子者だけではなかった。
にぎり目も、シノスケに憧れて声を張り上げた事が一回だけある。
「えぇ、
和尚の許しを頂ければぁ、」
そう言い始めた時のにぎり目の心はうずうずとしていた。
もしや自分でも、シノスケのように出来るのではないか、
境内の、普段は遊ばない子供達が寄ってくるのではないかと。
しかし現実は、
「はは、なんか言ってら」
と吐き捨てるだけで、
誰もにぎり目の周りに寄ってくる事はなかった。
無論、噺を聞いて笑って吹き出す、という事も無かった。
それがどうだ、
どこのどちら様かは知らないが、
この墓場では、確かに自分の噺を聞いて、
堪えきれずに吹き出し笑ってくれる誰かがいる。
そうだ、この墓場には例え両目が揃って無い自分でも、
それで差別せずに聞いてくれる、誰かが居るのだ。
この潰れたにぎり目が、今この墓場で、何の意味もなさない。
ああ、鬼でも亡者でも聞いていけ、
俺の話を『ただ』聞いてくれるなら、
好きなだけ聞かせてやる!
「――ぶふーっ、なんだこれは!
徳利の中身は小便ではないか!
―いやですから手前、先程から小便だと申しておりました!
――小便を小便だと言って持ってくる…この正直者め!」
「 ぶっは!」
噺の一番の盛り上がり所、
確かに聞こえた、ぶっは、と聞こえた。
ぶっはと吹き笑いをするのは人間しかいない、
ああ、人だ、そうだ人だ!
確かに俺の噺を笑ってくれた人が居たんだ!
ただ差別せずに聞いてくれたんだ。
「――御後が宜しいようで」
誰の姿も見えぬ夜の墓。
にぎり目はそう言って静かに頭を下げ、
その耳にはどこからか聞こえる堪え気味の笑い声が届いていた。
一瞬「おい、バカ、吹き出しやがって」と、
誰かがコソリと叱る声がした。
それからというもの、
にぎり目は夜毎に墓場に足を運んだ。
夜毎にシノスケ仕込みの噺を墓場で披露した。
毎夜毎夜、墓場のどこからかくすくす、くすくすと笑いが起きて、
「御後が宜しいようで」の言葉で噺を結んだ。
そうして判った事がある。
初めは墓場の外の林の中に誰かが潜み、
そこから笑い声がしていると思っていたのだが、
どうやらそれは違って、笑いは墓場の中から聞こえるらしい。
そして本当に墓場には、にぎり目以外には誰もいない。
そう、にぎり目のみの筈なのだ、『生きてる者』、は。
話しながら、にぎり目が耳に神経を走らせていると、
くすり、くすくすという笑い声は土の下より聞こえてくる模様、
要するに、いよいよ本当に、亡者達が笑っているらしかった。
普通だったらどえらいビックリ、裸足で逃げ出しそうなもの。
しかし、にぎり目にしたらどうでも良い些細な事だった。
これまで何度も噺を聞かせ、笑ってくれてる間柄。
今更それが死んでようが生きてようが知った事かい。
にぎり目はもう夢中だった。
自分が喋る噺を静かに聞いてくれて、
面白ければ笑ってくれる相手など、今までなかった。
この目が、たった一つ揃ってないだけで、
誰もがにぎり目を侮辱し、軽んじ、ろくに話も聞かなかった。
今までどんな思いをしてきたか、どんな仕打ちを受けてきたか。
この夜の墓場においては、にぎり目と亡者、
土の上と下ではあるが、まさに平等な立場なのであった。
そんなある夜、
ふと、にぎり目に出来心が沸いた。
「――そうだ、俺は猫が好きで好きでたまんなくてね、
そうら、そこの三毛、それを………」
その日も調子よく滑り出した噺だったが、
にぎり目の口が、ピタリと止まる。
いや、止めたのだ。
さては、墓場の入り口から誰か来たのか?
いや、見たところ誰も来ていない。
では、さては夜風に冷えて催したのか?
いや、別に小便をしたい訳でもなさそうだ。
不思議とにぎり目が黙りこくったので、
真っ暗闇の墓場には、求愛する秋の虫の鳴き声だけが。
それだけが暫く響いていたのだが、
随分経って後、驚く事が起きた。
「おい、続きは、どうした」
声がした、
墓の下だ、
土の中から。
「おい、しーっ」
また別の場所から声が聞こえる。
やはり土の中からだ。
そうして、また虫の声だけになってしまった。
「……続きが、聞きたいか?」
にぎり目が、そう闇夜に問いかけた。
誰の影も見えない、誰の足音も聞こえない。
ただ、居るとしたら、墓の下におわす亡者様方のみ。
「 そらぁ、ここまで聞いて途中で終わりは、ひどいだろ」
「こら、しーっ」
にぎり目の問いかけに返事がくる。
どなたかのお叱りの声も、おまけで。
「そうか、聞きたいか!?」
身体を前のめりに、にぎり目がもう一度聞いた。
「もったいぶんなよ、こっちは続きを待ってんだ」
「そうだそうだ、そこの三毛が、なんだってんだよ」
「ようやく面白くなってきたところだろ」
「ちょっとちょっとお前ら、
そんなに喋っちゃって、あーあー……」
笑い声しか聞いた事が無かった相手が、
普通の会話をする事で、声に色がつく、個性が判る。
そうかお前、そんな声で喋るんだな、そんな喋り方をするんだな。
一気に土の下との距離が縮まり、いや、それだけではない、
こっちは続きを待ってんだ、などと言われては、
もう今宵のにぎり目の気分は最高潮に達してしまう。
「お待たせして失礼御免、それでは話の続きを!」
と一層腕を振るって噺の続きを披露した。
その日の笑い声はどこか一味違った。
今までは、くすくす、や、くっくっく、と言った堪え気味の笑いが、
あはは、くっはっは、という、
生きてる人間が普通に笑うような調子だった。
にぎり目は嬉しかった、一層、認められたような気がして。
「――御後が宜しいようで」
今宵も墓場は大盛況、
噺の締めの後には幽かながら、手を叩くような音が聞こえた。
拍手だ間違いない、褒めてくれてるんだ。
嬉しい、なんて嬉しいんだ。
そして。
「おい、小僧」
「な、なんだよ」
初めて、土の中の方から話しかけてきた。
「お前なかなか達者な物言いをしやがる、幾つだ?」
「な、七歳」
「七歳だと?かぁーお前ら聞いたか?」
「いやぁたいしたもんだよ」
「俺の七歳の時の三倍はしっかりしてやがる」
「お前そんな昔の事覚えてんのかよ」
「はぁ?うるせえぞお前、
俺は褒めてやってんだよ凄いですねって、黙っとけ」
いやまぁ喋る喋る。
それまで堪え笑いしかしなかった連中がよく喋る。
一度素性がばれた盗人の如く、
夜のとばりの中で図々しく喋り始めた。
「おいボウズ、いつもありがとよ。」
「まさかこんな墓の中で落語が聞けるとは思ってなかった」
「ほんとほんと、しかも毎回面白いでやんの」
「えぇ、本当?面白かった?」
「そんなの聞いてりゃわかんだろ、
こっちは笑いを堪えるので必死だったっつーの」
「そうさなぁ、毎回しっかり面白いもんなぁ」
初めての事だった。
にぎり目を褒めてくれるのは、いつも和尚だけだったのだ。
人とは不思議なもので、
最初は嬉しい筈の和尚の褒め言葉も、
慣れてしまえば、はぁまたか、と飽きがくる。
本当は嬉しかった筈なのに、今度は別の人間から褒められてみたいと、
そう思ってしまったり、してしまう。
土の中からの褒め言葉は、
渇き割れた岩への水のように染み渡った。
闇の中、にぎり目はもう満面の笑み、この上ない。
「おいそうだボウズ」
「なんだい?」
「このな、俺達がな、墓場に居るって、内緒だぞ」
「そうだ、内緒だぞボウズ」
「うんうん、わかった」
「本当に判ったか?お前七つだろ?」
「言わないよぉ、言わないってば」
「安心しろ、お前の七つの時より三倍しっかりしてんだろうがよ」
「はぁ?お前本当に黙ってろよ」
「喧嘩しないでよ」
「いいかボウズ、もし俺達の事がばれちまったらなあ」
「うん、ばれたら?」
「ばれたら……」
「………」
「………」
「……え?別に困らないの?」
「いやいや困る困る。あーその、あれだ……、
ほら!お化けが出るお寺だって、人が寄り付かなくなるだろ」
「そうそう、誰も来なくなる」
「そしたら和尚さんが困っちまうぞ、多分」
「そうだ困るぞ、多分」
「あぁーなるほどぁ」
「だからな、ないしょだぞ」
「ないしょだ、ないしょ」
「しーっ、しーだ」
「うん判った」
「よしよし良い子だ。
んじゃあ、今日はありがとな。
それよりお前ちゃんと寝てんのか?
もう今日は寝床に戻りな、」
明日もまた頼むぜ。
※次回が恐らく完結、明日また同じ時間に。
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