「魔法みたい」と仰る方に、思うこと。

こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「何かを表現したり、褒める時に
魔法みたいと仰る方に、最近思うこと」

という内容です。

よろしくお願いいたします。

【魔法なんかじゃない】


まず、自分の話をさせて下さい。

僕は現在、介護施設で管理者をさせて
頂いています。

立場的には役職を頂いていまして
請求業務や、シフトの管理などが仕事です。

どの業態も同じかと思いますが
介護施設も、人員が足りているとは言い難く

日によって、現場で勤務される職員さんが
足りない、なんて状況はザラにあります。

そんな時、僕も現場で勤務させて頂いています。
元々現場育ちなので、自分的には何の苦もありません。

現場の日は、他の職員さんと協力して
利用者様の介助(お世話)をさせて頂くのですが

たま~に僕の介助を、職員さんがこう表現して
下さるんです。

「管理者さんの介助は、魔法みたいですね」

何故、こんな事を仰って下さるのかというと

例えば、職員さんが認知症の利用者様に対して
「〇〇さん、トイレに行きませんか?」
声掛けをさせて頂いても、上手く誘導出来ない。

果てには「もう、ええって言ってるのに!
誰かきてー!!」
みたいに、利用者様が立腹されて
目的が達成出来なかった。

そんな状況のあとで僕が、トイレ誘導のお誘いをすると
拒否もなく、スッと立たれてお手洗いに行かれた。

そういう状況を何回か目撃されているので
「管理者さんすごい!魔法みたい!」という
表現で、僕の事を褒めて下さって頂いているのだと
考えています。

もちろん褒めて頂けて、とっても嬉しいですし
意欲も爆上がりします。

と同時に、心の中でこういう想いも
次第に芽生え始めました。

「魔法なんかじゃない。
努力で身に着けた技術なんです」

【ユマニチュード】


「ユマニチュード」という言葉を聞いたことは
ありますでしょうか?

介護の仕事をされている方でないと
聞き馴染みはないかなと思います。

「ユマニチュード」とは
フランス語で「人間らしさ」を意味する言葉です。

「人とは何か」の哲学的な思想を元にした
「認知症の方に効果的なケア」の考え方
実践的な技術の総称です。

この「ユマニチュード」はよく
「魔法のような認知症ケア」と称されます。

「ユマニチュードを実践して、認知症の方の
周辺症状(認知症を起因とした様々な行動、言動)が
収まった。マシになった」

「お薬をいくら飲ませても
環境を変えてもダメだったのに、凄い!」

みたいな事例が、いくつもあるみたいです。
テレビなどでも紹介される時「魔法のような」という
形容をされることがよくあります。

ここだけ聞くと「へぇ、ユマニチュードってすごいなあ
どんな方法なんだろう」
って思われますよね?

細かい説明は省かせて頂きますが
ユマニチュードを、簡単に説明すると

「目を合わせて、相手のお話をちゃんと聞いて
優しく触れて、穏やかに前向きな表現で返答して
相手の意思を尊重しながら、生活のお手伝いをする」

というものです。

あなたにお聞きしたいのですが

これ「魔法」だと感じますでしょうか?

僕もあなたも、基本的には
普段、人に対してしている事ですよね?

ごめんなさい「ユマニチュード」を否定している
わけではなくて、僕が疑問に思っているのは

「ユマニチュードを魔法と表現すること」です。

「認知症の方に、上記の対応をする事が
まず難しくて、それを実践出来るから魔法なのでは?」

そうですね。それこそ認知症の周辺症状と
いうものは、発現理由も人によって様々です。

「徘徊」の症状ひとつとっても

「帰る家を探している」
「死別した伴侶を探している」
「失った何かを探しているが思い出せない」
「理由はないが、なんとなく歩きたい」

みたいに「徘徊という行動」は同じでも
「理由」は皆様違います。

その中で、ユマニチュードを過不足なく
実践出来る人は「魔法」と称されても
違和感はないのかも知れませんが

そこは「魔法」ではなく

実践者が「いかにユマニチュードの効果を
最大化するか」
を考え、試行錯誤を重ねて体得した

「技術」

と、表現すべきなのではないのかなと
思うのです。


【「魔法みたい」という表現の危うさ】


「魔法」という言葉の意味ですが
「人間の力ではなし得ない不思議な事を行う術」で

創作の世界、主にファンタジーなどでは
「敵に対抗する手段」
「絶対不利な状況から抜け出す奇跡の一手」
のように、とても幅の広い解釈と用途で
使われていますよね。

飽くまで自分の感覚としてですが

実際に成果の出ていること、ものを
例える時「魔法みたい」という表現を使われる方って

「瞬間の結果にしか目を向けていない」ような
印象を受けるんです。

僕の介護の話で例えますと

自分はコミュ障で、人と積極的に関わったり
喋ったりすることは、得意ではありません。

介護の仕事は10年くらい続けていますが
「お誘いする声掛け」だけをとってみても、

利用者様の中には、けんもほろろに断られたり
いきなり立腹されたり、上手くいかないことも
多かったです。

それでも、何年も現場で働かせて頂くうちに
「この人は、一緒に歩きながら
声掛けすれば成功確率が高いな」とか

「このタイミングで声掛けしても厳しいな」とか

「この人には、このくらいのテンポ、声量で。
右耳が聞き取りやすいから、肩に手を置かせてもらって
このワードで声掛けしよう」みたいに

段々と「自分の特性」と「相手の特性」の
両方が、掴めてくるものです。

言ってしまえば「声掛けのマニュアル」が
確立出来ている状態なんです。

今の自分の職場環境は
立場的には管理者、そして利用者様は
オープンの頃から知っている、関係性の出来た方。

ぶっちゃけ毎日、完全に「ホーム試合」です。

成功した瞬間だけみたら「魔法みたい」と思うのは
不思議ではないのかも知れません。

ですが、職員さんが魔法のように見えているのは
「楽に仕事と向き合える環境を生み出すため
苦労して考え、実践し続けてきた成果」であり

「努力を重ねた経験から得た、お客様と接する技術」の
何者でもないのです。

【「〇〇だから、出来たんだろ」】


「キングコング」というお笑い芸人さんを
ご存知ですか?

現在、梶原さんはyoutuberで登録者200万人以上で
いまの、芸能人のyoutube参戦祭りのきっかけとなり

西野さんは絵本や個展、日本1位の
オンラインサロンを運営されている方として

コンビで突出した結果を残されている方々です。

ごめんなさい、数年前まで
あんまり好きな芸人さんではなかったんです💦

梶原さんがyouteberを始めた直後くらいから
芸人さんとの対談動画を目当てに見ていたのですが

その時の梶原さんの、聞き役としての上手さや
想いなどを拝見するたびに
「テレビの時の印象と違うなぁ」と思うようになり

結果的に良くも悪くも「テレビ」が
いかに印象を操作する力が強いかが分かりました。

西野さんも、同様です。
梶原さんきっかけで「毎週キングコング」という
毎週お二人で雑談するチャンネルも見ているのですが

その時の西野さんの、梶原さんに対しての
「聞く姿勢」の素晴らしさが好きで
「本当、イメージって当てにならないんだな」と
偏見だらけの自分を恥じました。

ちょっと本題とズレました、ごめんなさい💦

例えば、キングコングのお二人の
「努力量」や「作業量」を知らなかった
以前の僕のような人間からすれば

「キングコング梶原
Youtube登録者数200万人突破!」
「キングコング西野、オンラインサロン
6万人突破!国内1位!」

という
「結果」だけをポンと突き付けられた時

「そりゃキングコングだからなぁ」とか
「あの二人だから出来たことでしょ」みたいな

「もともとその人は能力あったんだから」という
考え方、納得の仕方をしてしまいがちと思うんです。

これって、前の項目でお話した
「技術を魔法と形容している」のと
考え方としては同じなのかな
と、思ったんです。

こういう考え方をするようになると
「積み上げる思考が出来なくなる」というか

「継続することで得られる価値」を
知らず知らずのうちに、自分から
放棄してしまう人間になってしまうのでは
ないのかなと、考えるようになりました。

キングコングのお二人が突出した結果を残せたのは
才能はもちろんですが
凄まじい努力と、作業量がすべてです。
決して「有名だから」ではありません。

僕が、キングコングの何を知っているわけでも
ありませんが少なくとも、人が結果を残した時は

そこに至ったその人の背景も想像しながら
自分とも比較して、物事を考えられたら
いいな
と、いまは思っています。


【まとめ】


今回は「魔法みたいと仰る方に、最近思うこと」という
テーマで書かせて頂きました。

「魔法みたいですね!」と褒められて
引っかかるような偏屈は、多分僕だけです💦

相手もそんな深く考えているわけでは
ないと、分かっていますので
職員さんに指摘したりはしません(;^ω^)
(むしろネタを頂けて感謝しています)

有名人が、最初から有名だったわけではないし
結果を残した人の結果が、最初から
そこにあったわけではありませんよね。

色々考えるのは、やっぱり
「自分がより良く生きていくため」です。

他人を否定せず、受け入れながら
その行動や発言を自分の糧に出来ればいいなと
思う、ことばでした( *´艸`)

読んで下さって、ありがとうございました。

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