僕は男になりたかった
僕の性自認と性的指向
僕は生物学上男であるが、自分の性自認についてはノンバイナリージェンダーと定義づけている。ノンバイナリーとは、男女二元論におさまらず、自分を男でも女でもない、またどちらも持ち合わせている性別のことを言う。(これは身体的な話ではなく、自分を性別というカテゴライズにおいてどう位置づけているかという話)僕の場合は、男でも女でもないと感じている。
よく間違えられることが多いが、性自認とは自分の性別をどう認識しているかであって、性的指向(セクシュアリティ)とは別の話である。因みに僕のセクシュアリティは簡単に言えばゲイだが、これは性自認が男で、性的指向も男という場合に向けられるカテゴリー名だ。僕は性自認が男ではないので、正式(正式も何もないが)にはマセクシュアルという。マセクシュアルは性自認が何であれ、性的指向が男の場合に使えるカテゴリー名(性自認が何であれ、性的指向が女の場合に使えるのがウーマセクシュアルという)である。かといって僕に関して言えば、自分の性自認や性的指向に何かしらのカテゴライズをしたいわけではないので、普段はクィアやゲイという言葉で自己紹介したりしている。
"男として"生きる違和感
僕の性自認は1年ほど前までは男で、正真正銘(かどうかは分からないが)のゲイだった。
自分の性的指向に関しては幼い頃から違和感を感じていて、高校生のときに男を好きになり、そこから自分の性的指向とは向き合ってきた。
幼い頃から女友達が多く、ドラゴンボールと同じくらいにきらりん☆レボリューションが好きだったが、女子になりたいと思ったことはなかった。
「かっこいい男子とチュー出来るから女子として生まれたかった」と思ったことはあったが、それはかっこいい男子とキスがしたいという理由であって、自分が持って生まれた体に対する違和感ではない。
しかし僕が女になりたいわけじゃないと知ると周りは僕に"男として"生きるように求めた。特に学校という場所は男女二極化をめちゃくちゃに強いてくる場所だったから、色んな場面で自分が男として生きる苦しさを感じていた。授業や何らかのアクティビティーで男女別で分かれるとなったら仲のいい女子達とは一緒にいれず、僕を嫌悪する男子たちの中に入っていかなくてはいけなかった。(男子みんなが僕のことを嫌ってたわけじゃないけど、好きな女子がいるやつは大抵僕のことを嫌ってたけど(笑))そんな僕を見て教師も「男らしくしろ」「こてつみたいな女っぽいやつがいっぱいいたら大変だろ」なんてことを言ってくるし。まあ僕はそういうの悲しむより先にムカついてたから、職員室に行きみんなに聞こえるように「僕みたいな男らしくないやつは大変なんですよね、じゃあ修学旅行行かないです!」とか言って反抗していた(笑)(結局その先生を謝らせて修学旅行行ったけど♡)
女になりたいわけじゃないのに、男として生きるのがなんでこんなにも難しいんだろう。何度もそう思ったし、男コミュニティーに馴染めないのと同時に、彼らに対して憧れも抱いていた。自分が"男らしい男だったら"こんな思いしなかったのに。
ゲイコミュニティーでの男らしさ
学生時代は自分が男らしくないことは、自分がゲイだからだと思っていた。
今ではもちろん、性的指向は自分を構成する要素の一部としか思っていないから、可愛いものやキラキラしたものが好きなゲイもいれば、スポーツやバックパッカー旅行が好きなゲイがいるのも知っている。だがみんなが想像しやすい"いわゆるゲイ"に僕が当てはまっていたから、自分の性的指向を受け入れてしまえば、自分が男らしくないことも受け入れられるだろうと思っていた。事実、そうすることで躱せた物事もたくさんあったと思う。
山形にある大学を中退し東京に戻ってきたタイミングで、新宿2丁目のクラブに遊びに行ったり、ゲイ専用のデーティングアプリなどを使ってゲイコミュニティーと交流するようになった。ここであれば僕が男らしくなくても、受け入れられ、当てはまることのできない男らしさを求められることはないだろうと思っていた。
しかしそれは間違いだった。
ゲイコミュニティーでは理想の男性像が強く形成されていたのだ。
それはストレート男性を象徴したものであり、彼らに容姿、言動ともに近い者がここでは"モテ"となる。もちろん、好みは人それぞれだからみんながこのモテを求めるわけではないが、僕の周りを見ていても、ツーブロで筋肉質、アバクロの服を着るような男(アバクロを着る男性を否定してるわけではない)がチヤホヤされているのだ。これは僕とは違うタイプのゲイがモテで、僕がモテのカテゴリーではないことへの嫉妬も多少入っている可能性があるからあまり深く言及はしたくないが、確実にこのコミュニティーにおける理想の男性像というのは、僕が今までに他者から求められてきた像であるが故にしんどすぎる。
男性解放
どこに行っても自分が男と自認して生きている以上、男らしさを他者や社会から求められること、これはきっと自分の性的指向に関わらず、多くの男性が感じているものかもしれない。そして男として生きることでの苦しみを自分よりも弱者だと認識する女性やマイノリティーに対し、差別や暴力、権力によってコントロールしようとする人もいる。
そういった男たちを見えない圧力から解放しなくてはいけないと思い、アーティスト活動の一環としてZINE「ダンセーカイホー (Men's Liberation)」を制作した。このときに始めて自分の性的指向ではなく、性自認について考えはじめたのだ。
ZINEの詳細に関してはNEUT Magazineにて取材していただいた記事を載せておきますのでご覧ください。
またこのZINEは現在Loneliness Booksにて購入もできるのでこちらも是非チェックしてみてください。
男でもなく、女でもなく
こうして性的指向から段々と性自認について自分の中で問い始めていたときに、「歌手のサム・スミスが自身をノンバイナリーとカミングアウト」という記事を見つけ、そこでノンバイナリージェンダーの定義を知った。そのときに僕が男として生きていたのではなく、男になろうと生きていたことに気づいた。
僕は女になりたいわけではなかったが、それと同時に男でもなかったのだ。だけど生物学上では男だし、そうでない選択は女しかないと思っていたから、僕はどこにも当てはまることが出来ず、常に宙ぶらりんだった。
ノンバイナリージェンダーというラベリングに心地よさを感じているわけではないが、自分の性自認が男でも女でもないということに気づけたのはとても大きかった。
今まであらゆる場面で自分が不完全な男であると感じていたが、それは社会から求められる男性像に当てはまらないのもそうだし、そんなの振り払って自分らしく生きていたって、"男として"十分に自分のことを肯定することは出来なかったからだ。僕はただ、男としてでもなく、女としてでもなく、ただ中里虎鉄という生き物として生きているのだ。
自分の性について考えること
先に話していたのはあくまでも僕個人の話であって、社会から求められる男性像、女性像に当てはまらないからあなたの性自認はノンバイナリーなのだと言っているわけではない。既存の男性像、女性像がくだらないほどに毒的なものであるのと同様に、ノンバイナリー像なんてあってはならない。
しかし、僕は今まで自分のことを男だと思っていたが、自分の性について考えることがなければ、僕はノンバイナリーという性のあり方を選択することはなく、いつまでも男になれないことへ劣等感を抱き、アバクロ男性に敵意をむき出していただろう。
僕からすれば、男であろうが女であろうが、ノンバイナリーであろうがジェンダーフルイドだろうがなんだっていい。
あなたが自分自身に自信と心地よさを感じ、そして他者を性別というカテゴリーで優劣をつけることがなければ、なんだっていいのだ。自分の性について考えるということは、ジェンダーイクオリティー(文化・社会面での男女格差の是正)に繋がり、一人一人が性別によるプレッシャーから解放され、心地よく生きることのできる社会づくりなのだ。
photo by Hideya Ishima