棟方志功が版画を志したきっかけ、川上澄生《初夏の風》
「わたしは、呆然と見とれました。『ああ、いいなァ、ああ、いいなァ』と心も体も伸びていくような気持になっていました。」*
棟方志功が川上澄生の《初夏の風》を国画創作協会の展覧会で見たときの気持ちを語った言葉です。
ピンクのドレスを着て日傘を持ち、青いボンネットを被った女性。大きくひるがえるスカートの裾、いまにも吹き飛ばされそうな帽子。女性の正面や背後には風を吹きかける者の姿(志功は「風様の鬼」*と表現しました)が少しくすんだ青みの緑で描かれます。地面からは生い茂る夏草のような風が舞い上がっています。
強い風にドレスの裾をおさえる若い女性の姿と、彼女に吹きつける夏風の描写の巧みさに、志功でなくても「ああ、いいなぁ」と、思わず微笑んでしまう作品です。
この作品には恋心をうたった澄生自作の詩も刻まれています。
かぜ と なり たや
はつなつ の かぜ と なり たや
かのひとの まへに はだかり
かのひと の うしろより ふく
はつなつ の はつなつ の
かぜ と なりたや
「よし、わたしは版画家になるッ、と心腹が決まりました。澄生の『はつなつのかぜ』を見て、ゴッホのことを考えて、版画家としての自負心が定まりました。」*
この10年後、志功は出世作となる《大和し美し》を発表します。
川上澄生美術館(栃木県鹿沼市)で「川上澄生の全貌」展(前期)を観てきました。澄生は旧制宇都宮中学校(現在の宇都宮高校)で英語の教師をするかたわら木版画の制作を行い、数多くの仕事を残しました。「へっぽこ先生」を自称して自画像も描いていますが、教師という仕事に熱意をもって取り組み、生徒の親愛を集めた先生だったようです。その教師の仕事の寸暇を惜しんで描かれたのが《初夏の風》です。
澄生の作品は風景画、静物画、本の装幀、蔵書票、千代紙やトランプのデザインなど多彩です。
「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。」***
萩原朔太郎『猫町』の表紙には、床屋の窓からこちらを見る少し怖い猫が描かれています。展覧会では、この本の装幀も見ることができます。
私が「ああ、いいなぁ」と思った初期の作品《月の出》。
宇都宮の傘店「松屋」の屋上看板がモチーフとなっています。赤と白のパラソルと赤いたばこの看板のあいだに浮かぶ明るく丸い月。光が空に淡く残っている薄暮の時刻に街をおおう涼やかな空気。大胆で粋な構図とモダンな色使いが詩情をそそります。
「川上澄生の全貌展」鹿沼市立川上澄生美術館
前期~2022年11月27日・後期12月3日~2023年3月26日
《初夏の風》1926年(大正15年)は2022年10月16日までの展示
10月16日からは詩をローマ字で表記する《ローマ字 初夏の風》を展示
後期は不明
*棟方志功著『わだばゴッホになる』日本図書センター、1997年
**柏村祐司著『なるほど宇都宮』随想舎、2020年
***萩原朔太郎著『猫町』青空文庫(2022年9月20日閲覧)
底本『猫町他17篇』岩波文庫、1997年
親本『萩原朔太郎全集』筑摩書房、1976年
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?