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【玉葉和歌集】19 春霞

巻向の檜原の山の麓まで
春の霞はたなびきにけり

巻向の檜原の山の麓の方まで
春の霞はたなびいているよ

玉葉集・春歌上・19・藤原基俊

 シンプルすぎてつかみ所がない。これは良い歌なのか?
 どう味わって良いか分からないから調べることにした。

 「巻向」は大和の国の歌枕だ。『万葉集』でたくさん詠まれた。中でも「巻向の檜原」は何度も登場する人気フレーズだったようだ。

 文学史的に追ってみよう。

 『万葉集』で「巻向の檜原』を取り込んだ歌の中でも新古今時代に特に愛されたものが一首ある。『新古今和歌集』春部に入集している歌だ。

巻向の檜原のいまだ曇らねば
小松が原に淡雪ぞ降る

巻向の檜原はまだ曇らないのに
小松が原には淡雪が降っている

新古今集・春歌上・20・大伴家持/万葉集・巻10・2314

 角川ソフィア文庫『新古今和歌集上』では「『巻向の檜原』が遠景、『小松が原』が近景。」と言う。基俊がその構図を踏まえてこの歌を詠んだのなら「巻向の檜原の山」は遠景なのだろう。すると遠くの山の麓まで霞が広く世界を覆っている様子が浮かび上がる。檜原の山は霞の中で頭をのぞかせている。
 少しこの詩の味わいが分かってきた気がする。少しだけど。

 家持歌は冬歌なのに『新古今集』では春部に入れた。久保田淳は「明らかに冬の歌であるのを、残雪の歌と解してここに置いたのである。」と言う(『新古今和歌集全注釈一』)。『堀河百首』のときの藤原基俊もこの家持歌を残雪の歌と解したのかもしれない。
 この家持歌と基俊歌の影響下で詠まれたとされる次の歌がある。

麓まで霞みにけりなみ山には
松の葉白き雪もけなくに

麓まで霞んでしまったことだ。深い山の中では
松の葉を白く染めて積もる雪も消えていないのに

千五百番歌合・丹後

 こちらは明確に霞と残雪を対比している。家持歌を残雪歌ととった証拠にはならないけれど。
 この丹後の「麓まで」歌をみると基俊の「巻向の」歌の見所はやはり「麓まで」だったのだろうなと思う。基俊歌の手柄は麓までたっぷりとかかる霞の姿とそそり立つ山の姿を遠景の中で同時に表現し得たことだったのかもしれない。

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