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【短歌と和歌と、時々俳句】21 図書館と良経の浅間山

 今日は家族で市立科学館&市立図書館に行きました。
 図書館ではそれぞれ読みたい本を借ります。次男は最近ハマっている『おばけずかん』の未読本を探していました。カウンターで問い合わせると貸し出し中との返答。ただし返却作業中の本の中にあるかもしれないとのことで
「15分ほどお待ちください」
と言われました。
 それから近くで絵本を読みながら待ちます。しかし待てども待てども声がかからない。何度もカウンターを覗きますが先ほどの職員さんはいない様子。
 30分以上経過したところで業を煮やした妻が再びカウンターに行きました。そこでよく見ると、カウンターの隅に「ありませんでした」と書いてあるメモ書きを発見。
 いや、声かけてくれないのかよ。

 『新続古今和歌集』の春部を読んでいます。

春は猶淺間の嶽に空さえてくもる煙は雪げなりけり

新続古今和歌集 6 藤原良経

 初春の浅間山。良経が訪れて詠んだわけではないでしょう。『伊勢物語』の

信濃なる淺間の嶽に立つ煙をちこち人の見やは咎めぬ

伊勢物語 8段

などを念頭に詠んだのだと思います。伊勢物語歌は隠しきれない恋情の比喩と読むむきもありますが、良経の場合はこの歌より先に

空は猶霞みもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月

新古今和歌集 23 春上

があります。「○は猶」「△さえて」の言葉が似通い、冬と春との対比を歌う二首は、どちらもその二つの季節のあわいをとらえた歌だと考えます。少なくとも良経歌が恋を主題としているわけではないことは確かでしょう。

 「春は猶」歌の景色を確認しておきましょう。
 まず「春は猶」の「猶」は「空は猶」歌と同じく3句にかかります。暦の上の春が訪れてもまだやはり、冬の気配を残していることを示します。
 「淺間の嶽」は信州の浅間山。聳え立っています。
 その山が屹立する空はキンと冷たく冴え渡っています。冷え切った空気が肌を刺すほどでしょう。
 そんな冬の空気の中で山体から煙が吐き出されていきます。
 しかしそこに立つ者に煙は煙と感じられません。冬そのもののような空気が肌に食い込み、煙がまるで雪を降らす雲のように見えてしまうのでした。

 新古今集の歌は「霞みもやらず」という情感をこめた言い回しや曇りに隠された「春の夜の月」の優美な雰囲気が酔わせます。この月、まるで暦を弁えぬ無粋な冬に柳眉をひそめる美人のような佇まい。
 一方の新続古今集の歌は月の代わりに浅間山を登場させました。こちらもやはり冬の空気にさらされていますが、浅間山が曇るのは自身の吐き出す煙によってです。そしてその煙が雪を降らす雲のように見えている。となると浅間山自身も冬の一部であるのでしょう。新古今集の歌に比べて冬と春のせめぎ合いといった風情は無く、余寒の趣きがより強く表現されています。

 良経は後に新古今集歌の方を自歌合に出詠してます。浅間山より春の夜の月の良経のお気に入りとなったのかもしれませんね。 

 

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