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月と六ペンスを読んだ
社会的枠組みの中で作った芸術は「芸術」になり得ないのだろうか。
最近よく自問自答していることだ。
自分は企業や学校、個人と様々なパターンでの作曲・編曲依頼を受けて創作活動することが多い。勿論、それと全く関係なく想像のインスピレーションを得てただ作曲をするということもあるが、それが絶対的に自分だけのためのものかと言われると簡単にそうとも言い難い。
結局のところ、誰かに献呈したり、知ってもらいたい欲求を我慢できずにどこか演奏会で初演してもらったりしている。
月と六ペンスで出てくるストリックランドは完全に世を捨て、ただひたすら自分の一つの目的のために絵を続けている画家として描かれている。それはもはや狂気的で、果たしてこんな人間が存在するのだろうかと思うほどだ。そこには、一切の妥協はないし、絵を描くこと以外の全てを捨てているように見える。
しかし、この作品で大事なのは、社会的に成功していた人間が世を捨て狂気に走っただとか、芸術は孤独であるとか、そんな表層的な話ではないと思う。
人は何故苦悩をしてまで芸術を生み出すのか。
そういうのとはちょっと違うのだ。
苦悩という概念も、幸福という概念も社会的規範の中から見たときに生まれるもので、そもそも本質的な物事の追求をするときに苦も何もないのだ。
表現するということは、人に見せるためのものではない。表現は表現であって、それ以上でもそれ以下でもない。
では対人という思考が創作途中に介在した瞬間にそれは芸術ではなくなるのだろうか。
綺麗な曲を作りたい、綺麗な絵を描きたい、というのは人を喜ばせたいという思考が混ざり込んでいる。極端な話をすれば、それはつまり、多かれ少なかれ自分の社会的位置を確認するための作業とも捉えることができる。
これを作ることで友人が喜ぶ、知り合いの団体の人が喜ぶ、自分がそれを創る側の人間として認知されていく、金になる。どうあろうと社会という枠組みの中から逃れることはできない。
芸術とは何か。作品を創るとは何か。なんのために、表現しているのか。
勿論、それが最初から人を喜ばせたいという表現をしたいのであれば、それはそれでいいと思う。つまりは「社会的枠組みの中の人間から理解を得たい」という目的のために表現をする。そこに一切の妥協もないのであれば、何も言うことはないと思う。人の勝手だ。しかし、「理解を得たい」ことが芸術であるかと言われると、やはりそうではない気がする。
今僕も人を喜ばせる表現をしているわけで、作品ができる度にそれは別に「理解が得たい」からやっているわけではない!と思っても、そう思ったこと自体が反例で、それはどこまでいっても自分で自分に言い聞かせているようにしか感じないのだ。
音楽マネジメント業もしている中で、様々な人間と会った。ストリックランドのような人間なんて腐るほど見てきた。風呂にもう半年も入っていないような悪臭がする、服がよれよれで演奏をする、髪もぼさぼさで作曲の発表会に出てくる、納得いかなければ演奏をドタキャンをする。そんな人間が僕の周りには5人以上はいる。人でなしでなぜ常識をもって当たり前のことができないのだといつも苛立ちを覚えるが、それでいて、否定することができない。
おそらく彼らは、「理解が得たい」「芸術を作りたい」「世を捨てている」そんな思考すらもっていないのだと思う。ただ、ひたすら自分に見えている何か、真実のようなもの、を自分の目の前に引きずり出したいだけなのだ。風貌も相まって、ひたすら苦悩しているように見える。もがいているように見える。でも、当人達にとっては全くそんなつもりはない。
その何か真なるものを引きずり出せたら彼らは満足するだろうが、おそらく彼らは永遠に満足することはない。何故ならそれは人の世に出すにはあまりに巨大、壮大で、宇宙のようなもので、表現する側も受け取る側も掴み取り切ることができないからだ。表現できたとして一端のみで終わりだろう。
多分、それが芸術なんだと思う。芸術は芸事ではない。この世の真理を掴み取ろうとする、宇宙物理学みたいなものなのだと思う。