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無職77日目〜優しさが繋ぐ命の誕生〜

心太朗は早朝、妻・澄麗の痛みに気づき、出産の兆しを感じる。病院までの2時間のドライブ、迷いと決意の中で、彼はただ運転し続ける。無力さを感じながらも、周囲の優しさに支えられ、命の誕生に向けて一歩一歩進んでいく。

**無職77日目(11月16日)**

心太朗が目を覚ましたのは、早い朝だった。昨夜、「いつ産まれてもいいように」と珍しく早寝したせいだろう。枕元の空気にはまだ夜の名残が漂っている。隣を見ると、澄麗が静かに目を開けていた。

「おはよう、早いね」と声をかけると、澄麗は顔を少ししかめて「お腹がちょっと痛くて」と返す。声は控えめだけど、その響きにはどこか確かなものが混ざっていた。心太朗の頭の中で「前駆陣痛」という単語がポンと浮かぶ。本番の前に起こる予行演習のような痛み。様子を見るべきだろうか、しかし――。

痛みは規則的に訪れ、そして規則的に消える。そのリズムは機械的なまでに正確で、心太朗は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。「これは、本物かもしれない」。昨日、病院で施したマッサージや、噂の「早く産まれる焼肉」の効果なのだろうか?心太朗自身、あの時は信じていなかったが、今となっては全てが真実味を帯びて見える。だが、そんなことはどうでもいい。重要なのはこれからの行動だ。

家から病院までは2時間。準備は早い方がいい。心太朗は入院セットを整え、念入りにチェックリストを確認したが、ふと隣を見ると澄麗はまだ準備が進んでいない。「急に来るなんて思わなかった」と彼女は小さく呟いた。予定日はまだ5日先。しかし、そんな予定など赤子には無意味だということを、彼らはこれから思い知ることになる。

「様子を見る」と言い張る澄麗を見つめながら、心太朗は彼女の肩にそっと手を置いた。その手は微かに震えている。「いいから行こう」と言い切る。これが正解かは分からない。ただ、行動するしかない。

病院に電話をかけ、おしるしの出血のことを伝えると看護師は、「昨夜のマッサージの影響かも」と答えた。陣痛も「前駆陣痛の可能性が高い」と軽く流される。だが、胎動が感じられないことが気になるらしい。彼女の声が少し真剣味を帯び、「念のため来てください」と続けた。

心太朗は車にバッグを詰め込み、貼り紙を後部窓に掲げた。「陣痛のため病院に向かっています。道を譲っていただけると助かります。ご協力よろしくお願いします」。人の善意に期待するのは少し恥ずかしい。でも、この状況ではそんなことを言っていられない。

土曜の朝、道路は少し混んでいた。だが、張り紙を見た車が次々と道を譲ってくれる。何かが一歩ずつ前に進むような感覚が心太朗の胸を満たす。「世界は優しい」――それが今、彼の脳内を巡る感情だった。道の真ん中で世界が優しく笑った。

隣で澄麗が苦しんでいる。その痛みは明らかに強くなっている。声をかけたいが、「頑張れ」「大丈夫」以外の言葉が出てこない。役に立ちたいのに、役立たずでしかない自分が悔しい。ふと信号待ちで彼女の腹をさすってみたが、「痛いからやめて」と言われる。心太朗は思わず、ハンドルを握り直した。

「俺はただ運転する機械でいいんだ」そう思い直し、車を再び走らせる。痛みが増して言葉も出せなくなった澄麗を横目に、心太朗は無言で前を見据えた。この2時間のドライブは、彼の人生の中でも最も長く、そして最も短い旅路だった。

病院にたどり着いたのは正午前だった。2時間の道のりを越えて、無事にゴールへたどり着いたという安堵感が、心太朗の胸を一瞬だけ軽くした。「これで、俺の役目はひとまず完了だ」。だが、そう思ったのも束の間だった。

澄麗は車から降り、足を引きずるようにして診察室へ向かう。痛みを堪えた表情の奥には、何か言い表せない決意のようなものが見える。「俺は彼女に比べたら、ただの付き添いでしかない」。そんな自己嫌悪が心太朗の胸をじわじわと締めつける。

診察が終わり、助産師が澄麗に告げた。「まだまだ産まれそうにないですね。入院してもいいですが、家に戻っても構いません」。その言葉を聞いて、澄麗は「実家に帰ります」とぽつりと言った。

「実家か」と心太朗は思う。病院から30分。少し気が抜けるような気がした。「時間があるなら、それもいいかもしれない」。一旦車に荷物を積み直し、実家に向かう準備をした。

しかし、診察室から会計までの廊下で、澄麗が立ち止まり、椅子に腰掛けた。顔をしかめている。手を伸ばし、背中を摩ると彼女は声を漏らさず泣き始めた。

「車で帰るのが怖い」と澄麗は言う。心太朗は「じゃあ入院しよう」とすぐに提案したが、彼女は首を横に振る。痛みで迷っている。だが、その迷い自体が彼女の限界を語っていた。

「澄麗、頑張りすぎだよ。病院も入院してもいいって言ってくれてるんだから、入院しよう。そうすれば澄麗も俺も安心できるから」。言葉を絞り出すように、心太朗は伝えた。彼女はしばらく唇を噛んでいたが、やっと小さく頷いた。

病院の車椅子を借りて、澄麗を乗せ、再び診察室に戻る。入院の手続きを終えた頃には、すでに日が傾き始めていた。

「面会は出産までできません」と病院スタッフに告げられたとき、心太朗は一瞬、軽くめまいを覚えた。病院と家を往復するには、片道2時間。すでに夕方だ。ここで待機するしかない。どこにも行けない無力感が、身体中をゆっくりと這い回る。

車に戻り、澄麗と少しだけLINEをやり取りする。「頑張れ」とメッセージを送ると、澄麗から「まだしばらくかかりそうだから、ご飯食べて」と返信が来た。その一言が胸を刺す。「こんな時に、俺の飯の心配をしてくれるなんて……」。彼女に比べて、自分はどれだけ情けないんだろう。

心太朗はスマホを手に取り、小説の日記を書き始めた。言葉を紡ぐことで何とか無力感を追い払おうとする。しかし、書き終わると急に手持ち無沙汰になる。YouTubeを開いても内容は頭に入らない。ソワソワして集中できない。だから結局、何もせずに座っているだけだった。

夜が更け、23時を回ったころ、澄麗の両親が病院にやってきた。ひとりで車に待機している心太朗のことを気にかけて、差し入れを持ってきてくれた。コロナ禍の影響で面会はできないはずなのに、それでも気を使ってくれる心遣いに、心太朗は胸が熱くなる。

「俺は無力だ」。そんな思いが胸に広がるたびに、誰かの優しさがそれを少しずつ和らげてくれる。澄麗が病院で苦しむ今、自分には何もできない。でも、その何もできない時間をどうにか乗り越えるために、人はこうやって支え合うのだろう。心太朗はふと、自分の無力さそのものも、澄麗を支える一部なのかもしれないと思うことができた。

時計の針は静かに0時を回った。静寂の中で、遠くの病室から新しい命の気配が少しずつ近づいてくるような気がしていた。

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