父ちゃん3日目〜すべての後悔が家族の幸せに変わる瞬間〜
出産を終えた澄麗と健一は、これから5日間病院で過ごし、その後は3週間澄麗の実家へ。つまり、心太朗は今日から約1か月、無職のおっさんの一人暮らしを始めることになる。「こんなおっさんの一人暮らし日記、誰が読むんだ?」と思いつつも、筆を進めた。
心太朗が一人暮らしを再開するのは、実に久しぶりのことだった。病院から帰宅した昨晩、彼はしばらく興奮状態で眠れなかった。原因は明白だ。産まれたばかりの健一、その小さな命の瞬間を切り取った写真の数々。スマホの画面をスクロールしながら、ニヤニヤ、いや、もはやヘラヘラと笑いが止まらなかった。自分の表情が鏡に映っていたら、「どこの不審者だ?」と突っ込みたくなるほどだった。
そんなわけで、寝るのが遅くなった心太朗。しかし、前日の出産の大騒ぎで体は明らかに疲れているはずなのに、不思議と元気だった。「父親パワー」というやつだろうか。新生児というのはどうやら疲れをも吹っ飛ばす魔力を持っているらしい。ただし、父親業を本格始動したわけではなく、現状の心太朗にできるのは「写真を見てニヤニヤ」くらいである。
とはいえ、一人暮らしの時間は待ってはくれない。普段、家事はほとんど澄麗がこなしてくれている。いや、正確には心太朗が家事をやろうとするたびに、「いいから座ってて」とやんわり阻止されてきた。澄麗曰く、家事は彼女の「テリトリー」らしい。家庭内縄張り争いが勃発する前に引き下がるのが心太朗のスタンスだったのだが、今は彼女がいない。「おれのターンだ!」とばかりに家事に取りかかる。久しぶりの作業に、妙な高揚感すら覚える。
洗い物をしながら、洗濯をしながら、掃除をしながら、完全に自分の世界に浸る。だが、一人暮らしの家事など、こなしてしまえば残るのは空っぽの時間だけだ。「やることなくなっちゃったな」と思った途端、暇が襲いかかる。
そうなると、心太朗の行動は一択。昨日の写真を再び取り出し、またしてもニヤニヤ。これが新米父親の特権だとでも言わんばかりに、彼は健一の無垢な寝顔を見つめる。その姿に心から癒されながら、「かわいすぎて困るわ!」と一人で突っ込む。だが、写真では飽き足らないのも事実だ。「動いてる健一が観たい…!」心太朗の父性本能が叫ぶ。
そうだ、動画だ! スマホのフォルダを漁るも、動画の本数は悲しいほどに少ない。もっと撮るべきだったと後悔しつつ、頼みの綱である澄麗にLINEを送る。「健一の動画、送ってくれない?」と。
心太朗の人生を振り返れば、それは絵に描いたような失敗の連続だった。大学卒業後、彼は音楽に人生を賭けた。バンドを組み、ライブハウスで演奏し、自作の曲を披露した。しかし、現実は甘くなかった。音楽だけでは食べていけず、34歳の時、彼は音楽を諦めて初めての就職を決意する。それまでの空白を埋めるように、必死で働いた。いや、もはや必死すぎた。その結果、心は壊れ、彼は退職。現在、無職である。
失敗の記憶は心太朗を執拗に追いかけてくる。「もし、あの時、音楽を諦めなかったら成功していたのではないか。」「もし、もっと早く就職していれば、キャリアが違って、心が壊れることもなかったのではないか。」――何度も何度も別の人生を思い描き、そのたびに後悔という重い荷物を背負い込む。
だが、唯一、胸を張って「これだけは成功だった」と言えることがある。こんな自分でも受け入れてくれた澄麗に出会えたことだ。彼女はどんな時も心太朗を支え、その手を離さなかった。そして、そんな澄麗との間に生まれた小さな命――健一。彼らの存在が、心太朗にとって「最悪」の日々を「最高」に変える光そのものだった。
それでも、心太朗の思考は止まらない。「本当にそうだろうか?」と自問する。もし、音楽で成功していたら? もし、あの会社に入らなければ? 澄麗と出会うことはなかったのではないか。そして、健一の存在もなかったのではないか。
そう思うと、心太朗の中で一つの確信が芽生える。
「あの時、失敗だと思っていたことは、すべて澄麗と健一に出会うための過程だったのだ」と。つまり、彼の人生は「最大の幸せ」に至るために必要な失敗の連続だったのだ。
この考えが深まるにつれ、心太朗は思う。「もしかして、人生って最初から決まってるんじゃないか?」と。脳の構造、思考の癖、育ってきた環境――すべてが生まれた瞬間に決まっていて、その時々の選択肢など幻想に過ぎない。後悔するのは、あの時別の選択肢があったと思い込んでいるからだ。だが、実際には、あの時には「その選択肢を取る」ことができる自分などいなかった。
「運命は決まっている」――そう考えると、すべての選択が意味を失うように思えるかもしれない。だが、それは決して悲観的な話ではないのだ、と心太朗は気づく。
「映画を観るように、人生を眺めればいいのかもしれない。」
物語がどのように進むのか、一観客として楽しみにしていればいい。今はダメだと思っていることも、澄麗と健一に出会えたように、ある日たった一つの出来事が全てを肯定するかもしれない。
今、苦しくてどうしようもないと感じることも、それが伏線に過ぎないのだとしたらどうだろう? 人生の物語がその伏線を回収する日を、ただ眺めていればいいのだと、心太朗は考え始める。
「人生は作り物の映画より、はるかにうまくできている。」
彼はそう思った。そしてこれから澄麗と健一と共に、どんな物語が描かれるのか、その未来を楽しみにすることに決めた。
「さあ、人生よ。面白くしてみろ。」
そう心の中で呟きながら、心太朗は今日も生きていく。失敗だと思ったことも、振り返れば全ては「幸せ」への布石。きっとこれからも、そんな伏線がどんどん張られていくのだろう。そして、その回収の瞬間を見届けるために、彼は物語を眺め続けることを決めた。