言語化の先にあるものへ
気がつけばもう、半年ほどの時間が経ってしまった。当時の景色と今のそれは全然ちがっていて、今回は今の視点で当時を振り返りたい。
シンガーとして歌い始めて、
2曲目に完成した曲のことだ。
なりたい自分と、現実の自分の「間」
今回テーマにする楽曲は、まさにそんな曲だった。僕はもともと、アルバムを作りたくて、作曲家として歩んできたキャリアとは別軸の「歌と作詞」を始めた。
noteでも何度も書いてきた通り、歌は僕にとって目的ではなく「想いを伝える、苦しくも希望に満ちた"手段"」だと思っていた。ただ、自分の歌が僕の音楽家としての基準を満たすには想像以上の訓練が必要で、その訓練を前提にしたアルバムの楽曲は、当時じゃ到底歌えなかった。
ゆえに僕は、信頼できる音楽仲間のアドバイスもあって、アルバムに向かう最中の「リアルな自分」を、「アルバムには収録しない前提で」歌にするプロジェクトを始めた。
こうして作られた楽曲が、6月、7月にリリースしてきた『bleach』、そしてアニメ『ユーレイデコ』とのコラボソング『leaves』、そして今回紹介する『draw』だ。
3曲全てのタイトルに「α」を冠した楽曲群。今振り返ると、楽曲のクオリティ・精神が安定していない。特に歌。1曲レコーディングするごとに、歌の技術も変動するし、何より歌いながら抱いた感情も大きく変化していった。
自分としては、やっと
自分の歌が歌えているというのが直近1ヶ月の実感だ。
歌う上で苦労していたこと
1番の壁は、自分が歌い手としてマイクの前に立った時、どんな声、どんな癖、どんな表情で歌うのかが、見えていなかったことだ。
こればかりは、歌って歌って「ありたい自分」を掘り当てるしかなかった。歌うまでは、自分の声の中で、嫌いな部分ばかりが目立っていた。だから、発声方法を根本から鍛え直した。「嫌いな声」と「好きな声」が分別できるように。
これを1年かけて徹底的にやり込んだことで、
今は自分の歌声とは何かを、もうすでに自分の中で描けている。
ここまで来られて、ようやく今、僕は歌が好きになってきた。
ずっと「手段」でしかないと思っていた自分の歌が、
少しずつだけど「歌いたい」という目的に変わりつつある。
作詞にも言えること
僕の場合、歌の技術より歌詞の方が先に実体が見え始めた。noteも全く同じだけど、書いていくうちに自分のリズムが生まれる。リズムと内容が噛み合った時に、歌詞として芯を食ったフレーズが現れる。
不思議なことに、歌詞がある方が
メロディという物体的な存在の価値も、はるかに高まって感じた。
メロディだけでなく、歌詞を自分で書き始めたことで
改めて「旋律は言葉の感情を引き出すためのツール」なんだと気づく。
だからこそ、歌にも歌詞にも同じことが言えるのだけど、「この言葉って、本当に説得力ある?」「この歌声って、本当に俺の感情?」というのを、歌い始めてから何度も何度も推敲してきた。
「脱色はした。さて何を描こうか」
僕にとって今回話している楽曲は、歌を歌うために自分を脱色した真実への続編だ。『bleach』は僕にとって、新たなキャンバスづくり。塗りつぶすように自分の奥まで染み込んでいた「らしさ」を、一度可能な限り清算した。だから、今回語る楽曲では
を歌った。だから、僕はこの曲に『draw』という名前をつけた。
去年から今年にかけての僕
一言で言うと、「決断力が鈍りに鈍った自分」になった。
何をするにもだ。
わかりやすい例で言うと、ここnoteで投稿している僕のエッセイは、去年の今頃を境に、一気に投稿量が減った。
サボっているつもりはない。実は結構な頻度で、noteを開いては書いている。問題は、以前より決断に時間がかかるようになったこと。Time is Moneyさが増しに増す現代に、
という、自問自答がものすごく増えた。ゆえに、発信機会も減ってしまい、減った分、世の中から忘れ去られるリスクを感じる機会が増えた。
なぜ、考え込んでしまうのか
自分の内面を、より大事にしているからだ。1つ1つの発信がどんな形でも後に残ると思ったら、言葉にも表現にも後悔したくない。
もちろん、以前からその気持ちは強くあった。
でも比較すると、歌うと決める前後では重みが全然違う。より、顔を出し、自分の言葉で語る人間という自覚が強くなったのかもしれない。
企画して、実行しなかったアイデアのメモや、
辛くて弱音を吐くように書いたメモが、
この1年どんどん積み重なっていった。
世に出す言葉も、この1年は飾らないで発していたと思う。そんな自分になれても尚「これを吐いたところで誰も救われない」と思うような、闇というか影というかを多く含んだ感情が蓄積していく。
こういう話を、ぽろっと話すくらいだったら、
もっと投稿頻度は高まっただろう。
でも、果たして僕にとってその「ぽろっ」が、
歌という新しく、重要な挑戦として適切なのか。
・・・勿論、そんなわけない。
重要な発表や表現が、自分へのプレッシャーで決断できない度に、世の中だけでなく周りの人たちに伝えたいことも言えなくなり、「明日こそ」と、予定表に未処理の連絡事項が溜まっていた。
約束していた連絡もできなくなった。そりゃ、人も離れていくよな。申し訳ないと思いながら、そのスパイラルに陥って、より連絡できなくなった。
誰に向けた言葉で、誰の言葉なのか
最近色んな人が「言語化」について話しているのを耳にする。僕はこの「言語化」という単語は、割と今バズワードなんじゃないかと思っている。
ありがたいことに、僕はしばしば自分の感情を言葉にすることを他人に褒めてもらえることがある。そういう意味では、自分の感情を歌詞に宿すことに、もともと向いているのかもしれない。でもそんな自分でも、
この言葉を使った方が検索に引っかかりやすいかな
この言葉を引用した方が、今話題だしウケるかな
という「流行り言葉に乗ってみよう」としたり、
この人、多分歳下から正論言われるの嫌いだよな
この場で自分の本音をぶつけても、メリットないよな
みたいな「外的要因に由来する言葉選び」を、当たり前のようにする。
それらは、自分の感情を広く一般的に、「変に損をせずに」伝えていくために絶対に必要なことだと僕は思う。顔と名前を晒せば、尚更。言えること、言えないことが増えていく。
でも、もしそれを「音楽表現」でやってしまったら、どうだろうか。
「表現」って
僕はそんなふうに思ってる。たとえ聴き手の「リアル」を代弁してたって、受け取る人にとっては「今じゃない、もっといい場所」に連れていってくれるもの。それが、音楽に限らず、表現を受信するときの醍醐味だと思う。
だからこそ、描き手の純度がその没入感を左右する。
借りてきた言葉を未消化のまま使うと、受け手の「?」になり、
それは即、現実世界の別事象を連想し、途端に「冷めていく」。
特に、自信のない表現、借りてきた故の「後ろめたさ」は、驚くほど感覚的、かつシビアに受け手に伝わってしまう。質問されて答えられないなども一緒だ。その一瞬、「・・・」と言葉に詰まってしまう自然な間(ま)が、即自信のなさに見えたりする。
表現を完成させるって、どんなフェーズの人であれ、並大抵の根性じゃ叶えられない。だからこそ、完成させた表現を、作った本人が人に伝えようとするとき「伝えるために、中途半端に翻訳する」のは、果たして作品にとって正義なのか。
言うまでもなく伝えるときの「正義」は、バランス感覚という極めて曖昧な基準で都度最適化するほかない。独りよがりな表現じゃ誰にも相手にされないし、かと言って捻じ曲げすぎたら、独創性の角を丸くしてしまう。
だとしてもだ。
自分が積み上げてきた想いや執念について意にそぐわない時、僕はどんなに偉い人相手でも「僕にとっては、違います」って言える人でいたい。
僕がアーティスト活動を始めて以来、根本ではずっとそう思い続けている。でも、自信がなくなってしまうと、正直さ、誠実さの精度が鈍くなってしまう。歌うことを言い出せずにいたのは、本気な自分に第三者がコメントをくれた際、「ですよねぇ・・・。」って漏らしそうだったから。
それくらい、自信がなかった。
僕の中で一貫していたこと
自分に、見栄を張る必要はない。ダメだって、一番わかっている人に「ダメなんだよ、俺」って言えた。かつ自分を鼓舞する言葉をかける、余裕や気力もなかった。
だからこそ、「苦しい」とか「ダメなやつだよね」みたいな自問自答は、めちゃくちゃ正直な想いだって自信があった。そして実際、自分の気持ちを正直に言葉に表現する訓練として書いたnoteは、反響を呼んできた。
自分が自分向けに書いた歌
楽曲『draw』とは、まさにそんな歌。
僕が当時、自分自身が一番聴きたいと思う曲を書いたつもりだ。不安を正直に描き、繊細で扱いづらかった当時の僕の声で歌う。歌詞に宿した不安を、軽快に吹き飛ばしてくれるようなビートで、同じ言葉遣いも「前向き」に感じさせる音楽にする。
音楽は、最終的にメロディやトラックの力にかなり引っ張られる。
僕は別に、暗い僕が好きなわけじゃない。精神が落ち込んだ時期が過ぎ去った時、その思い出を肯定できていたい。何より、落ち込んでいる最中をそのまま曲全体のムードとして仕上げたら、誰の心にもプラスが働かない。だから毎回、曲自体の印象は僕が美しいと感じる音楽を目指してる。
それが、僕が僕に向けて書く楽曲だって、今は強く思えてる。
シンガーデビュー曲『bleach』との続編性
実は、楽曲『bleach』と『draw』には関連性がある。
ふたつの作品の、アートワークを見てほしい。
お気づきだろうか。この2作品、実は元の絵は同じ絵なのだ。
この元絵は、僕がトラックメイカーとして愛用するシンセサイザー、Roland Jupiter-8のデザインをモチーフに作ってもらったグラフィックだ。「楽器の音色こそ、1番の自分らしさ」と信じてきた自分から、「自分自身の言葉で語る」自分への変化を決意し、このアイデアが浮かんだ。
作曲家、音楽プロデューサーとして培ってきた自分の強みを「脱色」して、新しい自分らしさを「描いた」のが、leift。
そんな世界観を、1つのモチーフを崩し、再構築しながら、アートワークでも表現していただいた。2人にはこれまでも僕の作品に深く携わってもらっていて、改めて感謝しかない。
僕の中でやりたかった表現は、一旦やりきった。
リリースしてみて感じたこと
無名の新人アーティストであるleift。多くのアーティストがひしめくSpotifyやApple Musicなどのストリーミングサービスの中で、頭角を表せているとはまだまだ言えない。
それでも、リリースを重ねるごとに、リスナーの方々や各社のプレイリストへのリストイン、メディアが紹介してくれるなど、少しずつ楽曲は浸透し始めているように思う。
想いが、誰かの想いを呼びこむ
中でも嬉しいなと思うのは、歌詞と歌声が伴った僕の音楽が、リスナーの方の具体的な言葉を誘発してくれていることだ。
僕の心に、深く印象に残ったコメントをくれた方の声をここで紹介させていただく。インスタのストーリーズでは、その時も紹介させていただいた。
歌うまで、ここまでの熱量と考察をくれた方とは出会えなかった。
歌詞を僕自身で書いていないこともあるだろう。英語詞の曲が多かったからかもしれない。いずれにせよ、「歌唱・作詞作曲・編曲・録音ミックス」までを僕1人で行なっているleiftの楽曲には、僕が大事にしている景色や思想が色濃く詰まっていて、その色を、ご自身の解釈でこれだけ濃厚に受け取ってくれる方がいる、ということに気づかせてもらえた。
素の自分を晒しても、ちゃんと居場所がある
無名のシンガーソングライターになってみて。僕自身の正直な想いを言葉にして歌ってみて。そんな自分を多くの人に知ってもらえる機会を、プレイリストという形で与えてもらえたのが嬉しかった。
この感覚は、KOTARO SAITOとして活動してきた時に得てきた「実績的な喜び」とは全く別のものだった。毎週、おそらく万を超えるであろう配信楽曲が世に送り出されていく。そんな中で、自分の正直な気持ちに気づいてもらえる居場所を与えられたのは、素直に、本当に嬉しかった。
プロデューサーとして果敢に攻め入ろうとしていた時期とは、全然違う感覚で今、楽曲を世に送り出す気持ちでいる。
自分から生まれた感情、特に葛藤や弱さを、
素直に曲に込め、小さくても確かな希望として世に送り出したい。
自分にとって一番繊細で非力な一面が、他の誰かに届き何かの役に立てた時、自分の嫌いな一面にも光を差してあげられる。僕はそう信じて、これからも「見せたくないな」「恥ずかしいな」「こういうとこ、好きじゃないな」という部分を曲に込めながら、ポジティブな想いに変換したい。
今後の予定や計画
僕はもう、leiftに対して迷いはない。
迷いがない状態になると、人は強くなる。楽曲『draw』を歌ったのは今年の春先で、気がつけばもう半年くらい時間が経った。半年間、歌も楽しく練習しているから、つい最近録音した新曲たちは、随分と歌もこなれてきたんじゃないかと自負する。
変化した自分 = β
一言で言えば「辛いから、楽しい」へ向かい始めた自分だ。
さっきも書いたけど、僕は辛い時にベストな創作ができるタイプの人間じゃない。辛いのはあくまで、手段だ。苦しい経験を経るから、何度でも自分をアップデートしていけて、結局僕はアップデートした後の自分が好きになれるから、これまでもこれからも挑戦をやめないのだと思う。
ここからは、一気に自分らしい歌を届けていくフェーズへと、ひた走る。公約を立てるわけじゃないけど、今僕が考えている計画を聞いてほしい。
アルバムのために、去年の今頃から何度も書き直して作った楽曲(制作中のものも含め)が、11曲ある。この楽曲の中から、約半分をシングルカットし、毎月皆さんに楽しんでもらおうと思っている。
実はもう年内リリース分、つまり9月・10月・11月にリリースする楽曲は完成している。『bleach』『leaves』『draw』という3曲を経て、歌は勿論のこと、トラックメイクの部分でも進化した僕をお見せできると信じている。
じゃないと、歌に失礼なんだ。技術だけの話じゃない。想いや、気合い、本気さの部分で、去年のトラックに歌を乗せても、トラックが歌についてこられないという現象が、ここ数ヶ月何度も起きた。
僕だけじゃない。時代と共に、
音楽そのものが間違いなく前進していく。
去年のトラックのままで良いわけがないのだ。
曲によっては、トラックを良くするために15回トラックメイクした曲もあった。これまでリリースしてきた僕の作品たちは作った当時の「直感」をものすごく大切にしていたから、トラックのリテイクは殆どしなかった。
でも今回は、歌うというチャレンジに加え、明確に「どの曲で、何を言うか」を決めてアルバム制作を始めている。「言いたい事が伝わらない曲は、ダメ」という。僕の中での明確な判断基準が存在する。
アルバム『βeige』という作品を、来年の3月にリリースしたいと思っている。ここで初めて、僕がアーティスト・leiftに込めた色んな想いが形になる。全体の3割しか現状できていないけれど、年末までの4ヶ月で、残りの曲を完成させ「自分史上最高を、更新した作品」だと思えるよう仕上げる。
来年に入っても、アルバムリリースまではシングルカットで定期リリースを考えている。状況に応じて柔軟にプランは変更するかもしれないが、今の心算としては、そんな感じだ。
僕は、leiftとしてライブがしたいとずっと思ってきた。人前で歌えるほど、僕の歌はまだ、完成度が至っていないかもしれない。それでも僕は、人前で自分の音楽を歌い、表現したい。
ずっと、半裏方みたいなポジションで音楽をやってきた。顔というより、頭脳的なポジションを好んで担ってきた。そんな自分を脱皮して、自分がフロントマンになるという挑戦がしたい。理由は明確。
自分の言葉を、想いを、
僕以外に託さず自分で伝えたいからだ。
曲を書く時点でもう、自分がカッコ悪いとか、恥ずかしいことはしたくないとか、そういう感情は全て認めてきた。だから今の僕には何も、中途半端に守るべき自尊心なんてない。そんな自分が伝えられるものを、歌いたい。
現在、各所と調整をしているところだ。
具体的な実施内容が決まったら、報告させてほしい。
最後に
ここまで読んでくれた方々には是非、
僕が経てきた「α期」最後の1曲『draw』を聴いてほしい。