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ハンナアーレントと気候変動

ハンナ・アーレント「全体主義の起源」の中で印象に残った一節があります。(曖昧な記憶なので正しく知りたい人は自分で読んでくださいね。)

ナチスによるユダヤ人の強制移動命令に対して、複数の国は、自国のユダヤ人を守るためにナチスドイツの命令に従わなかった。特にデンマークでは、「人権を侵害する命令に従いたくない。辞める。」と多くの官僚が抵抗した。官僚が皆辞めてしまっては命令が執行できないので、結果デンマーク国内のユダヤ人を守ることができた。

というようなお話です。

また、先日たまたまデンマーク大使館のツイッターで、

デンマークでは投票率が90%、税金は高いが政治の決定に自分も関与できるという感覚があるから納得してる

というようなつぶやきが流れてきました。

何がどこまで本当かはわかりませんが、いいな〜と思いました。
いいな〜と思った理由は、気候変動問題に取り組む中で感じるたくさんの課題と繋がるな〜と思ったからです。

本気で気候変動、環境問題に取り組んできた人たちや、本気で未来を心配している勇気ある若者たちは、とても不安に思っています。自分たちの訴えが届かないのではないか。声が届いているのか届いていないのかわからない。
意思決定プロセスの透明度が低く、どんな理由で国が目指す二酸化炭素削減目標が決まるのかわからない、と。

多くの人が声をあげています。未来のため、家族や友人のため、出会うことのないしかし構造的に自身が加害者側でありうる気候変動の犠牲者のために。

声が届くという感覚を多くの人が持てるようになるといいなと思います。
意見が通らなくても、正当で透明で多様なプロセスと理由があれば、声が届くという感覚は失われないと思います。

もし政府が2030年の目標を40%台という低い目標に設定したならば、それは人権侵害に真剣に対応しないというメッセージとなります。少なくとも、国際的にはそのように認識されますし、僕も、そう思います。

声が届かないという感覚は、諦めに繋がります。
政治が自分ごとじゃなくなります。

政治が自分事でない人が増えると、意思決定は民意を反映しないものになり、正統性は削がれていってしまいます。正統性が低い中で行う政治には人々はついていかず、ここでも分断が起こってしまうように思います。

そんなことをぼんやりと考えました。ミャンマー問題にも通じますが、官僚の不服従、市民の不服従が、多くの人が幸せでいられる社会を作るために大事な場面は、歴史上きっと何度も、というかいつでもあったのだなと思いました。

官僚の不服従によってユダヤ人を守ったデンマーク。
日本は今何に服従し、何に不服従すればいいんでしょうね。
雑談でした。

4月22日は気候マーチ。
多くの人が参加してくれるといいですね。
https://ato4nen.com/climatestrike0422/

チョコレートでみんなを笑顔にできるように頑張ります!