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1章 中小企業の活路は海外にあり―日吉屋メソッドができるまで― 02 生い立ち~海外経験で気づいた事

和歌山県新宮市ってどこ?

さて、しばらく時間が空いてしまいましたが、前回は日吉屋の創業~4代目(先代)までの簡単な沿革をご紹介しましたが、今回は、私自身の半生と日吉屋の事業を継承するまでの事を書きたいと思います。
私の出身は和歌山県の最南端、「新宮市(しんぐうし)」というところです。新宮と聞いただけでどこにその町があるか分かる人は、かなり珍しいのではないかと思います。

本州の中央あたりの南側に紀伊半島という半島があり、和歌山県、奈良県、三重県が立地しますが、その和歌山と三重の県境に新宮市はあります。
私はこの新宮市で生まれ育ちました。人口3万人程度の自然に囲まれた(自然しかないとも言えますが)何の変哲も無い田舎育ちです。
※地元新宮市役所のWeb参照
https://www.city.shingu.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=18796

新宮MAP

英語と合気道との出会い

父は英語塾を経営し、母は専業主婦。4人兄弟の長男として何も考えずにボーっと育ったのですが、小学校の中~高学年ぐらいから強制的に父の英語塾に入れられて、英語の勉強をさせられた事と、その上父の交友関係のお陰で外国人の方が家に遊びに来たり、しばらくホームステイ(?)として泊まっていったりと、比較的英語と接する機会がありました。

新宮には、「合気道」という武道の有名な道場があり、道場主が海外でも有名な達人だった事もあり、その先生の教えを請いに田舎としては比較的多くの外国人の方が常時生活をしており、私も父の友人で英会話を習っていたのアメリカ人の先生のご紹介で、中学生から合気道を習う事になりました。
実は祖父も高校の英語教師をしていた事もあり、父がその仕事を継いでいたのですが、どちらもかなり変わった教え方をしていた事や、田舎なので、かなりの確率で祖父か父に英語を習った方がいて、〇〇先生のお孫さん、又は息子さんと呼ばれるのが、少し苦痛でしたし、小学校の頃から強制的に塾に入れられたので、はじめは英語は嫌いでした。(今では父には大変感謝しておりますが、、、)
しかし、道場に行きだして、多くの外国人修行者の方々と稽古するようになってから、友人が出来たこともあり英語で会話をしたいがために、自分でも辞書を片手に勉強するようになりました。

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※(写真)合気道熊野塾道場公式Webより。
http://www.aikido-kumano-jyuku.com/index.html

地元高校を卒業して、カナダへ

そうこうするうちに高校2年になり、将来の進路を考えなければならない時期になりましたが、イマイチ勉強が好きでなかった事や、その頃には朝夜は道場へ、高校も合気道部に入り、合気道やそこで出会う様々な国の方から聞く異国の話に徐々に惹かれるようになって行き、また、父型の親戚が戦後、カナダの東海外にあるトロント市という町に移民しており、そこで育った従妹が帰国した際にワーキングホリデーという制度が出来たので、そのビザでカナダに来てはどうかと誘ってくれた事もあり、高校卒業したらカナダに行ってみようと考えていました。
当時在籍していた高校は比較的大学に進学する生徒が多く、毎年のように有名大学に進学する者も輩出した事もあったのでしょうか、学校の雰囲気は、「高校からなるべくレベルの高い大学に行き、有名企業に就職する事が幸せである」という風潮だったように記憶しています。
まだバブル経済が弾ける直前であり、受験戦争という言葉でニュースで叫ばれ、そのモデルコースから脱落すると人生失格というような感じでしたので、カナダに行くと言っても別に大学に進学するでも無く、就職するでも無く、「勉強・就労・観光と何でもできるが、1年間限定」というのがワーキングホリデービザでしたので、「核とした目的も無く、ただ異国で生活してみたい」という漠然とした思いだけで、高校卒業とともに異国に向かうという進路は、学校の進路指導の想定に無く、担任の先生を困らせ、母親には泣かれましたが、将来の頑固な性格のせいか、楽観的であまり深く考えないせいなのかは分かりませんが、最終的には先生も親も理解してくれ、とにかく卒業と共にトロントに渡りました。
同級生の中で、進路が曖昧なまま卒業したのは自分一人だったのではないかなと思います。丁度バブル経済も弾け、世の中一変して日本は大不況に突入したばかりの時期でしたので、今から考えたら本当に何も考えてなかったなあ、とまさに若気の至りでした。まあ、若くて怖い物知らずの時にしかできない事もあるかもしれませんが、、、

学生時代

※前列右端が著者(トロントアイランドより市内を望む)

カナダでの生活は、従妹にお世話になり、トロント大学のESLという語学コースで英語を学びながら、夜は市内の日本食レストランなどでアルバイトをする生活を1年続け、本当にいろんな人に出会い、旅をしたり内容の濃い時間を過ごしました。その時に出会った友人達とは今でもお付き合いのある方も多く、その時の経験が今の自分の考え方や、仕事にもつながっていると事あるごとに思い返します。

学生時代2

今の仕事でも大切にしている、「外から見た視点」という気づき

トロントはカナダ最大の都市で経済の中心ですが、教育にも力を入れており、世界中から留学生が集まる町でもありました。
様々な国や地域から、多種多様な人種や文化の違う人が集まると、そもそも何が常識なのか分かりません。
友達と待ち合わせをしても、約束の時間通りに行ったら日本人以外誰も来ていない事や、場の空気を読んで、気を使って、迷惑かけないように、と周囲に気を使っても誰も気が付かないなど、海外日本人あるある、と呼ぶような事態に多く遭遇します。
また、宗教や、タブー、人種差別や、戦争、貧困など、日本にいたらテレビの中の遠い世界の中でしかないよう思える事が、身近に起こったり、友人知人を通じてリアルな現実だと認識させられる事が日常的におこります。
その中で気付き、今の仕事でも常に意識して心掛けている事がありますので、ここに記載しておきたいと思います。

1)日本を外からの視点で見ること

新宮時代も、様々な外国の方と道場などで知り合いましたが、あくまでホームグラウンドの「日本」での出来事でしたので、日本人としての生活という日常の中での非日常という出来事でした。
私たちは普段あまり意識する事無く、日本語で、日本社会の中で生活しており、一部の大都市を除き圧倒的多数が日本人ですので、自分が「日本人」である事や、「日本語」を選択して話していると意識する機会がほとんどありません。
ところが、外国の生活では、いきなり「日本代表」となる場面に多く出くわします。「日本の事を教えて欲しい」「日本では何がはやっているのか?」「歌舞伎や茶道について説明してくれ」等など、、、、
当時はインターネットが存在していません、スマホやガラケーさえ無い状況です。テレビや新聞でも日本がニュースになるのは、何か大事件が起こった時ぐらいです。
「日本」というのは日本人に取って、正に空気のようなもので、普段全く意識していないので、その日本の何が価値ある事なのか、海外の方からどう見られているのか?を外からの視点で見る事が非常に重要です。
自分達が思う「日本の良さ」と、外から見た「日本の良さ」は異なる事があります。
現在はネット社会ですので、物理的には世界中とつながっており、様々な情報を得る事ができます。しかし、普段日本語で検索して発見できる情報と、英語や他の言語でネットを検索して発見できる情報では、同じ事象であっても論調や見解が異なっている事は良くあります。

2)日本の現在地を意識すること

日本がどんな国か、少し考えてみましょう。
現在はG7の1カ国に数えられ、GDPは世界3位の経済国というのが一般に知られている立ち位置でしょうか。
国連加盟国は193カ国あるそうですので、これを見れば、かなり豊かな国だという事が分かります。
ただしGDPを人口で割った一人あたりGDPでは30位ぐらいのようです。まあそれでも上位1/6には入ってるので、豊かな方だとは言えますね。(微妙な位置だとも言えますが、、、)ちなみに1位はルクセンブルクだそうです。
人口の違いや、貨幣価値の差、貧富の差など、見方により違いはあるでしょうが、それでも全体としては恵まれていると言えます。
潜在的な脅威はいろいろあるにせよ、現在戦争状態にある訳でも無く、完全失業率も僅か2%台。
コロナで失業者が増えているとは言え、えり好みしなければ、かなりの確率で仕事はありますし、万一どうしてもダメな時は生活保護など、行政に頼る事もできます。
紛争状態にある国や、失業率が何十パーセントもある国、そもそも現金収入が年間10万円以下の国もある事を考えれば、天国のような状況です。

トロント時代に一緒に皿洗いのアルバイトをしていたスリランカ人の友人は、生まれた時から内戦下で育ち、何の選択肢も無くカナダに難民としてたどり着いた過去を持っていました。
学校で同じクラスになり親友となったクロアチア人は、一夜にして戦争がはじまり、それまでの幸せな生活を失い、親戚を頼ってカナダに避難して来ており、一方で南米や東アジアの新興国と思っていた国から来ていた級友は、大金持ちで豪華な都心の一等地のマンションに住み、何不自由なく暮らしていたり、貧富の格差の凄まじさも感じました。
その友人の住むマンションの近くの路上では、冬になるとホームレスの方が地下鉄の排気口の近くで寝ていて、恐らく冬を越せずに凍死して亡くなる方が毎年多くいました。

そのような違いをリアルに感じる事が日本社会では難しいのではないでしょうか。
自分は当時アルバイトで生活費を稼ぐのがギリギリ(日本語を話せるというだけで、英語も覚束ない、何の能力も持たない外国人ができるのは最底辺の仕事だけなので)でしたが、そのような何の取りえもない、普通の日本人が望めば簡単にそこで生活出来、帰りたければいつでも日本に帰る事が出来る。
そんな贅沢ができる事自体が、グローバルで考えたらあり得ないぐらい豊であるという事に気づかされました。

3)日本ってどんな国?

個人的な意見ですが、日本はかなり「変わった」国であるように感じています。これはやはり歴史的、地理的な要因が大きいと思います。
日本の文化を考えると、中国の影響は大きいと言えます。これは日本に限らずアジア全般に言えると思います。
使う文字は漢字と、それから発展したひらがな、カタカナと3種類もあり、漢字自体は中国語と似た意味も多いですが、それでも現代の中国語とは、文法も全く異なり、日本人が中国に行っても、書いてある文字は何となく想像できる事もありますが、話し言葉は全く分からないのが普通です。
島国で孤立している事や江戸時代の鎖国などもあり、他の文化圏と触れ合う期間が少なく、小さな国土で、ほぼ単一民族に近い形で形成されたので、文化的には独自性の極めて高いと言えます。
欧米はもとより、中東、アフリカと比較しても、似た部分を探すことが極めて難しいぐらい、異質な文化だと思います。
他国に完全に侵略された事が無く、言語や文化を全否定されて強制的に他の文化を強制された事が歴史上無い事が原因で、現代の「日本」は成立しています。
第二次世界大戦敗戦後に、かなりアメリカに影響を受けたとは言え、アメリカ的でもなく、中国的でも無い、西洋と東洋の間で微妙にどちらでも無い、独自の文化を築いてきました。
長々書きましたが、言いたい事は、「日本の常識は世界の非常識」と言えるぐらい、異なった社会であるという事です。
実際に海外に出て生活すると、想像していたより「全然違う」と感じる事ができます。
姿格好や風景などの見た目の部分より、人の「考え方、常識」等の見えない部分差が、より大きいと感じます。

4)これらの違いをふまえた上で、ビジネスを考えないと上手くいかない

当たり前の事ですが、我々普段商売をしている者は「お客様」の好みに合ったデザインや、味、機能、用途、趣向、予算感なども総合的に考えて、商品やサービスを提供しています。
しかし、ここで想定する「お客様」は、日本人を想定し、日本国内で提供する事を前提として最適化し、考えている事が多いです。
前述の1)~3)で少し述べた通り、「海外のお客様」を想定した場合は、今まで最適と思ってきた事が、必ずしもそうではない事が多いです。当たり前ですが、相手が全く違うからです。
では相手の事を想像しようと思っても、言語も習慣も違い、そもそも接点が無い事が多く、「何が違うのかもわからない」という事になります。
文化と言語は密接な関係がありますが、日本語はほぼ日本でしか使われていないので、誰も日本人の考えている事は分からないし、外国の方が何を考えているか、想像もできないのが普通です。

明日食べるものにも困っている国の方に、世界的に見たら極めて高価な日本製の商品を売ろうと思っても無理でしょう。100均の商品でさえ高価に思える国も多いです。
戒律的に牛を食べない(神聖な動物として敬っている)ヒンドゥー教の方に和牛を勧めても怒られると思います。
日本にいたら、このような事は想像もできないのが普通です。

日本人の考え方を象徴する言葉に、「外国人」「外国語」という言葉があります。世界には193カ国も国があり、多様な文化的背景を持つ国がある事を頭では知っていながら、日本以外を全て「外国・外国人」と呼んでいるのです。
正確には「アメリカ人」「フランス人」「ナイジェリア人」などと呼ぶべきですが、、、、
これは日本を「内」それ以外を「外」と認識しているからです。日本の場合は物理的な国境を差すだけでは無く、「自分達以外」の知らない国、人種、考え等を全て総称しているように思います。
「地球人」に対する「宇宙人」ぐらいの、違いを感じているのではないでしょうか。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。元ネタの孫氏の兵法書には、こうあるようです。

彼を知り、己を知れば百戦殆ふからず
彼を知らずして己を知れば一勝一負す
彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に必ず殆ふし

商品やサービスを売りたい相手の事を知らず、そもそも自分達の何が良いかも(客観的に)分からないようであれば、「戦う毎に必ず危うし」な状況に陥ります。

本稿のまとめ

海外事業を行う際には、相手が自分とは全く異なるという事を認識し、
「日本」が諸外国からどう見えるのか、
自分たちの(相手に対する)良さが何なのかを把握しないと
上手くいかないという、海外ビジネスの基本を
10代のうちに気づく事が出来たのが、自分に取って大きな資産となりました。
書き出すとあれもこれもと書きたくなり、なかなか本題に近づけませんが、次回はカナダからの帰国後に、市役所で働く事になった経緯から日吉屋との出会いのあたりを書けたらと思います。


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