この世界は「経験」で溢れている
こんにちは。
これからいくつかの記事で、私の世界観をすこしだけ文章にしてみたいと思います。占星術家を目指すにあたって、自分の考えを整理し、残しておきたいのです。
それと同時に、私が占星術を扱う上で欠かせないと考える「概念」を整理し、記述したいと思います。
なぜわざわざこんなふうにして「概念」みたいなややこしいものを持ち出すのかというと、私の金星とパラスが山羊座12度「A student of nature lecturing」にあるからというのが主な理由ですが、それに加え、柔らかく豊かな占星術的イメージを扱うには、「概念」のように硬く限定された道具が必要だと考えるからです。
「イメージは生命力をもつが明確さに欠け、概念はその逆になる」
我らが偉大なるC・G・ユング博士はこう仰っておりますし、豊かなイメージの海に飛び込む前に、乗り心地の良いボートをしたためようという訳です。
今日、ここで紹介する概念とは、タイトルにある通り、この世界についての概念です。
まずは言葉の整理をしましょう。私がここで言う「世界」とは、基本的には物事すべてを指しています。窓から見える街並みや車の音、雲、遠い地球の裏側アマゾンに生息する珍しい蝶々、キング牧師の演説、デボン紀の海洋生物、宇宙のどこかで生まれたばかりのブラックホールなどなどです。
私、Kotaneriが生まれてからそれなりの時間がたっていますが、気づけば世界はこのような在り方で存在していました。望むと望まざるとに関わらず、なぜか世界はこのようにして存在しているのです。
その理由について、現代社会では自然科学的な説明、つまり「ビックバンがあり、地球が生まれ、原初の生命が生じ、進化して人間が出現し、諸々の歴史があって今に至る」という説明が広く受け入れられています。
ただ、実際のところ現代の社会や人々は「この世界がなぜこのようにして存在しているのか」について考えることに、あまりリソースを費やしていません。まあ、きりがないし、あまりにナイーブで重要すぎるテーマなので仕方のないことなのかなと思います。
ただ、以前、別の記事にも書きましたが、私にとっては、このテーマは無視できない非常に重要なものなので、私なりの考え、世界観を、色んな方々(その多くは今は亡き偉人たちですが)のお力添えをいただきながらまとめ上げてきました(そしてその世界観のおかげで占星術にも出会うことができました、導きよ、ありがとう)。
さて、私がたどり着いたその世界観に勇気をもってラベル付けをするなら、
汎心論(panpsychism)、汎経験主義(panexperientialism)、アニミズム(animism)といったようなものになるかと思います。
が、その細かい定義に執着はありません。要するに、
「この世界を構成する基礎の基礎の部分に、素粒子などの物理的な要素とは本質的に異なる要素が存在する。それらはおそらく心や意識、経験や霊魂などといった、自然科学的な範疇では描写できないものだろう」と、大まかにこう考えているのです。
言い換えると、「心や意識、経験、霊魂などがこの世界に存在するだけでなく、世界の基礎の基礎に遍在している」
さらにシンプルに言えば、「この世界は意識や経験や魂で溢れている」
と、こんな感じの世界観を私は大切にしています。
中でも、私は「経験」という言葉を使うのが好きです。個人的に「この世界には魂が溢れている」というより「経験が溢れている」という方がイメージが湧きやすいからです。
では、「この世界の基礎の基礎に経験が遍在している」とはどういうことでしょうか。なぜそう考えるのでしょうか。疑問に思われた方のために、少しだけお話しします。
私たちの住むこの世界は、「ビッグバンが起こって地球に生命が生まれ猿の脳味噌が膨張して文明が生まれた世界」です。これら一連の現象は全て科学的な見地で説明がつきます。これは現代に至るまでに無数の偉大な科学者たちが人生をかけて解き明かしてくれた尊い説明です。
しかし、なぜビッグバンが起こったのか? なぜ地球に生命が生まれたのか? なぜ猿がヒトに進化したのか? なぜ文明がこのように発達したのか? 残念ながら、科学的な見地ではこれらの疑問には答えようがありません。どこまでいっても「どのようにしてこれらの現象が起こったのか」についての説明しかできないのです。
「なぜ世界がこうあるのか?」についての説明には自然科学とはまったく別の素材が必要になるのです。
実は、これと似たような性質を持つ現象がもうひとつあります。意識や経験です。
私の、あなたの意識や経験は「ニューロンが発火することで」生じます。もちろんもっと複雑なプロセスが踏まれるのでしょうが、大まかに言えば「神経細胞をはじめとした諸細胞の活動」の結果が経験なのです。しかし、世界の成り立ちと同様、「なぜ経験が生じるのか?」には科学的な見地では答えることはできません。
ちょっと待って、それなら「なぜこの世界がこうあるのか? なぜ私の経験がこうあるのか?」については結局わからないままじゃないか!と、どこからか叫ぶ声が聞こえます。
ご名答、そうなんです。私たちは知らず知らずのうちにこのような摩訶不思議ワンダーランドに生まれ、住み着いてしまっているのです。
ただ、ひとつだけ確かなことがあります。
それは、今、私が「経験をしている」ということ。
この記事を読むあなたが今、「経験をしている」ということです。今、あなたや私が感じている「これ」だけが唯一、本質的に確かなことなのです。
「これ(=経験)」が確かであるならば、ビッグバンに始まる一連のストーリーも「これ」と同じ性質であればこそ、確かなものになります。つまり、世界にはもともと経験が遍在しており、それがたまたま今私たちが感じている「これ」として表出しているのです。
「経験」は宇宙誕生の時から存在し、自然法則に則って、あるいは「経験」の求めるままに、地球を生み、生命を生み、人間を生み、私やあなたを生み、今の「これ」が私たちに分け与えられている。そんなふうに考えることができます。さらに言えば、世界に遍く存在する「経験」とはある種の「エネルギー」であり、それには何らかの「法則」がある。神話や宗教、魔術の類はそれについての知恵を司る。少し飛躍しますが、こうも考えています。
かんたんなご説明でしたが、これが私なりの世界観です。色んな人の色んな考えのつぎはぎ的な側面は否めず、哲学的な批評の目に晒されてしまえば、欠陥も見受けられると思います。もし目につくポイントがあればご指摘いただければ幸いです。
ただ実のところ、私がこの世界観を選んでいる本当の理由はもっと個人的なものなのです。
私は「これ」をこの上なく尊く、美しく、素晴らしいものだと感じています。時にはくそくらえと思うこともありますが、総じて私は「経験」が大好きです。大好きであるどころか「これ」が存在することの神秘に畏敬の念すら感じています。
私は「これ」を世界のベースに置くことで健やかに心地よく過ごすことができます。世界に遍在する「これ」の流れに身を任せる方が、「科学的な必然」に身を任せるよりも楽しく、よりよく生きることができるのです。
「経験」を世界のベースに置くことで、日々の、ひとつひとつの経験を大切にしようという気持ちにもなれます。それが全てなのですから。
さらにこの世界観に染まってしまうと、
経験を大切にするとはどういうことなのか? 私はどのような経験を求めていて、それはなぜなのか? そこに何らかの仕組みはないのか? あの人は、この草木は、この社会はどんな経験をしているのか? どんな経験を求めているのか? なぜなのか?
という経験に付随する疑問が次々と湧き起こってきます。なんだか宗教的探究みたいですね。ただ、これら疑問の答えを探るには、信仰心でも神の恩寵でもなく、あるいは、高度な知識や客観的事実でもなく、想像力が必要となります。
「経験」とは不思議なもので、想像力や詩的な感性、共感、物語の力を用いて描写したときに、最もリアルに浮かび上がってきます。
逆に言えば、この世界に溢れる経験をよりはっきりと描像するには、想像力や詩的な感性が不可欠だということになります。あらゆる分野の芸術は、それを助ける最も有効な媒体でしょう。詩や小説や絵画や映画などに触れ、私はそのことを確信しています。
占星術も芸術みたいなものです。そうです、「この世界に溢れる経験を描像する有効な媒体」という観点では、占星術も芸術です。だから私は占星術にここまで魅了されるのかもしれません。
占星術によって、私たちは小説や映画などとはまた違ったアプローチで、自分はどんな経験を求めているのか? 彼があの経験を求めるのはなぜか? あの人にとっての理想的な経験の波はどんなものか? などといった問題に、豊かな想像力を働かせながら取り組むことができます。最高にクールで面白いですよね。
さてさて、長くなり過ぎてしまうので今回はここまでにします。
今日の記事では
①世界は経験で溢れている
②占星術は経験を扱う芸術である
というお話ができました。「世界は経験で溢れいてる」という概念をここに書き記すことで、私自身、占星術家を目指す背景みたいなものが明確になってきました。
次回は、「本当の自己」という概念についてお話し、これから本格的にこのnoteで扱っていく占星術という脆く繊細な芸術をさらに補強したいなと思っています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
それでは、また!
追記
古いノートにユングのこんな言葉がありました。忘れちゃっていましたが、おそらくユングの自伝を読んだ時に深く感動したので書き記したのでしょう。この記事の内容にも関わりのある文章だったので引用させていただきます。
「どんな名前を我々が与えようとも、現実の事実は変わるものではない。ただ、われわれ自身が影響されるだけである。もし誰かが「神」を「純粋無」と考えてみたところで、上位原理の存在という事実には何ら関係のないことなのである。知ることのできないものに積極的に名付けることは、われわれもそれに対応して積極的な態度を取るという長所がある。従って、もし我々が「神」を「元型」として話すならば、われわれは神の真の性質について何も述べているはなく、「神」が既にわれわれの心の中に意識より以前に先在し、したがって神を意識の発明したものと考えることはできないことを知らしめようとしているのである。われわれは神をより遠ざけようとするのではなく、また抹消しようというのでもない。ただ経験可能な方へと近づけようとしているのである。」
私はこの記事でその上位原理の存在を「経験」と名付けましたが、ユングがここで「神」という「元型」について述べたとおり、「経験」と名付けることで積極的な態度を取ることができます。「経験」と名付けること、つまり「経験」という概念の導入は、やはり私が占星術を行う上で不可欠なもののようです。
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