無意識に人生謳歌マッチが灯る
数日前、ホテルの地下1階にあるジムのランニングマシンで、ほんの10分ばかり走った。
久々に全身の筋肉と心臓を動かしたおかげで、寂れた商店街のようになっていた毛細血管に温かい血が巡ってたいへん気持ちがよかった。
目の前には真っ黒なスクリーンと壁と鏡しか見えなかったので、走りながら数秒ほど目をつぶっては開いてを繰り返した。
だいぶ体温も上がって汗もかき始めた頃、目をつぶったとたん、サッカーの練習前に学校の周りをランニングしている中学生時代の自分にフラッシュバックしたような錯覚に陥った。
インドの大都会のホテルの地下、蛍光灯のチラつく小さなジムで、空気の綺麗な日本の田舎道を走っている少年になったような気分になったのだ。
当時の私は、サッカーやら駅伝やらとにかく走っていた。
毎日毎日走っていた。
特に喜びは感じていなかったと思う。
でも、とにかくやるべきことと思って無理のない範囲で自分なりに一生懸命やっていた。
息は切れるし筋肉痛は痛いしで走るのはかなり辛かったが、ぜんぶ終わって家に帰りながら飲むジュースや友達との遊ぶ約束は、私に至福をもたらしてくれた。
そして、ああ。と思った。
走りながら流れる風景、サッカーのナイター練習でグランドに灯された光、長く伸びるチームメイトの影、帰り道の車の中で流れる音楽、家族との会話、途中のコンビニで買ったみかんゼリー。
これらぜんぶおれの人生だったんだ。
なんだか涙が溢れそうな気持ちになった。
どれももう遠い昔に過ぎ去ってしまった何気ない現象たちで、あの時はこれが自分の人生だなんてことは考えもしなかった。
そう思うと同時に、今この一瞬、インドのホテルの地下一階でランニングマシンでどったんばったん走っているこの一瞬も、同じようにおれの人生なんだ。
そう思うと、この一瞬が何ものにも変え難い愛おしいものに感じた。
すると力が湧いてきた。
インドのホテルの地下一階でランニングマシンでどったんばったん走っているこの一瞬を心の底から楽しくてワクワクするものにしてやる!
と思った。
走る足は早まり、ランニングマシンに表示される消費カロリーの数値もまた加算スピードを増していった。
ウィンウィンウィンウィン
ドタンバタンドタンバタン
ランニングマシンを走る際の例のリズムも早まっていった。
しかし、しばらくすると息が切れ、こんなことしたってどうにもなりゃしないや。そんなことよりも、長期的にどうこの人生を楽しむかだ。
と考え、スピードを緩めた。
しばらくののち、私は走るのをやめ、二分ほどクールダウンのウォーキングをしてから、外の空気を吸おうと小さなフィットネスルームを後にした。
いつもルームナンバーとタオルの要否を確認してくるインド人のおじさんが眠そうに「Good night sir」と言ったので私もグッナイとかえした。
さて、ホテルの外の庭に出て芝生のゾーンを歩きながら、私はある認識が芽生えていることに気づいた。
一瞬、一瞬が人生だ。これの連続なんだ。
人生は、「これ」なんだ。
ああ大切にしなきゃ。
*
と、数日前に得られたささやかな気付きについてかなり細かく描写したわけですが、このごく当然と言えば当然の気付きを得たことで何か行動が変わったか、あるいは見える景色が変わったか、習慣は変わったかと問われみても、全て答えはノーと言わざるを得ません。
おそらく誰もが無意識のうちに知っている事実がどういうわけか強い印象を伴って私の中に現れただけ、と言ってしまえば冷めた物言いですが、
「自分の人生を謳歌せんとする意志」が、まるでマッチで松明に火を灯すように私の無意識の中で光り始めたのはたいへん喜ばしく、嬉しい兆候なので、ここに記録することにいたしました。
こんな拙い記事ですが、皆様にとって少しでも人生謳歌マッチのような役割を果たせたなら嬉しく思います。
それでは、ナマステ
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