雑記#3 遊び場と社交界
どうもこんにちは。
研究のお時間がやってまいりました。
とつぜんですが、
人間という生物は、いついかなる時も人との関係性の中に生きている。
そんな気がしませんでしょうか。
人間という生物をつぶさに観察すると、それを裏付ける事実が山のように積み上がってまいりますので、私にとって「人間関係」や「社会」というものはつきつめて研究すべき非常に重要なテーマなのです。
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言うまでもなく、私たちが生きていくためには、人と関係を築くことが不可欠でござます。
人は生まれたその瞬間から、父と母、あるいは兄弟姉妹、周囲の人々との関係に内包されており、赤子のうちはそれら無しでは三日と生きられないわけですから、人は宿命的に人間関係から逃れられないものなのです。
過去の人間関係も記憶の中に、無意識の海の底に存在し続け、その人が天寿を全うするまで甚大な影響を及ぼし続けます。
したがって、「どのような人間関係を構築していくか」ということは、それすなわち人生そのものであり、人間という種の個体にとって避けては通れない生存戦略でもある、というわけです。
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人間関係や社会には、多種多様なバリエーションがあります。
お付き合いのある方々のお顔を何人か思い浮かべてみてください。
そして、彼ら彼女らと関係を築き、維持している理由について想像してみてください。
実に種々多様な理由や背景があることでしょう。
そしてその関係ひとつひとつに唯一無二の物語が存在しています。
関係性とは基本的に「私とあなた」という「一対一」の構造から成り立っており、その一対一が複雑無限に絡み合っています。
Aという一対一の関係性が、Bという一対一の関係性に影響を与え、AとBの関係性がC、D、Eに影響を及ぼし、というふうに広がってゆき、やがてひとつの社会が形成されます。
まるで森や海の生態系のようです。
生態系と同じように、人間関係や社会には、それぞれ独自の特徴を持った無数のバリエーションが存在しているわけですが、この記事では、占星術の力を借りて、人間関係や社会についての原型的なイメージを、いくつか描き出していきたいと考えております。
ただし、もちろん、森に展開する壮大な生命のサイクルをまるごと描き出すことが不可能なように、人間関係についても、そのすべてを描写することはできません。
あくまで、際立った特徴をいくつか象徴的に描き出すことしかできないのです。
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それでは本題に入ります。
先日、友人の結婚式でスピーチをする機会をいただいたのですが、その時の経験と、その結婚式に関連する星の様子から、面白いインスピレーションを得ました。
そのインスピレーションとはこういうものです。
社会には横と縦のつながりがあって、それぞれ全く違ったベクトルに関係性が展開している。
この「縦と横のつながり」というコンセプトはやがて、私のなかで、「牡羊座=天秤座軸」と「蟹座=山羊座軸」の象徴する人間関係のイメージに膨れ上がっていきました。
どういうことでしょうか。。
これを紐解くために「結婚披露宴」というメタファーを召喚したいと思います。
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結婚披露宴の会場をイメージしてみてください。
きらびやかな会場の中央前方には、色とりどりのお花が飾られた席があり、そこには新郎新婦が座っています。
そして彼らと縁の深い人々が、複数の円卓についています。
ご両家のご家族、ご親族が末席に、会社や恩師などの主賓が中央に、そしてそのあいだには中高生時代の同級生や大学時代のご友人、会社の同僚などが座っています。
一般的な結婚披露宴の会場はなんとなくこんな感じではないでしょうか。
普段なら出会うことのないであろう見ず知らずの人々が、新郎新婦の大切な日を祝うために正装をして集まり、涙を流し、大いに笑い、新郎新婦を中心として感情を共有するひとつの社会が出来上がっている。
そう考えると実に非日常的で不思議な場です。
「結婚披露宴」という儀式の放つこの不思議な感覚。
私は、これは「縦横のつながりの交わり」によって生じるのではないかと思うのです。
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さて、私の言う「縦のつながり」とは、結婚披露宴におけるそれぞれの円卓を指しています。
円卓は、家族、高校、大学、会社、付き合いのあるどこかのグループなどなど、通常、新郎新婦の帰属している、あるいは帰属していた集団や組織、コミュニティごとに分かれています。
これが、「縦のつながり」です。
縦のつながりに帰属する人々は、多くの場合、自ら進んでそこにいるわけではありません。受動的にそこに含まれているのです。
大袈裟な言い方をすれば、
「世の摂理」によって導かれてそこにいるのです。
生まれながらに、属する家族は定められており、親族も決まっています。
学生時代に出会う人々も、会社で共に働く人々も選べません。せいぜい学校や組織が決めた人々の集団の中から選ぶしかないわけです。
物事を単純化するために極端な表現をしましたが、
この「受動的に帰属している」という側面が、縦のつながりの主だった特徴です。
一方、「横のつながり」とは、円卓内または円卓間の関係性を指します。
ここで新郎新婦の立場になってみましょう。
披露宴に招待するにあたり、これまで数多く出会い時間を過ごした人々の中から、数十名まで絞らなければなりません。
たとえば、会社の同僚と一口に言っても、誰でも彼でも呼ぶわけにはいきませんし、小学校や中学校の同級生なんか尚更です。
また、これまで帰属していたコミュニティ全てに円卓を用意するわけにもいきません。
彼らは、個人的なつながりの濃さや大切さに応じて、招待する人を選ぶことになります。
そうです。つまり披露宴にいる人々は、新郎新婦が能動的に選び、自らがそこに赴くことを能動的に選ぶことで、召喚された人々なのです。
これが、「横のつながり」です。
横のつながりに選ばれた人は、多くの場合、どのコミュニティに属していようとも、お互い能動的に選び合うことで関係性が生まれていきます。
ここでも大袈裟な言い方をしますが、
「個人の意志」によって望んでそこにいるのです。
誰でも好きな人々や尊敬する人々と時間を過ごしたいものです。
そこには、おしゃれなところが好きだとか、けんかは良くするけど一緒に遊んでいて楽しいだとか、これからも何となく仲良くしていきたいなあだとか、極めて個人的な基準が存在しています。
この「能動的に選びとっている」という側面が、横のつながりの特徴なのです。
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ここからさらに、この「縦横のつながり」のイメージを深掘りしていきましょう。
人間関係や社会にこのような構造上の分類が存在するとして、それはなぜ生じるのでしょうか?
原因はやはり人間の心にあります。
物心の芽生えたばかりの幼児たちを、野原に放ってみましょう。
思考実験です。
子どもたちは、満足に寝て、お腹いっぱいにご飯を食べて満足しているときには、その有り余るエネルギーを糧に、めいっぱい遊ぼうとします。
遊ぶ時には、友だちが必要です。友だちがいなければ鬼ごっこもできなければおしゃべりもできません。
友だちと遊ぶ時間が進むにつれ、子どもたちは自然と、導かれるようにいくつかのグループに分かれていきます。
そこには、ひとつの原理が働いています。
子どもたちの自由意志です。
なんとなく気が合う子たち、走り回るのが大好きな子たちと、手先を器用に使って遊ぶ方が好きな子たち。それぞれが自らの持つ本質によって結びついていきます。
自己(セルフ)の求めるつながり。
これが、「遊び場」において生じる現象なのです。
この「遊び場」において生じる、裸の自分の求めるつながりは、横のつながりの一つの極に位置します。
私はこの象徴に牡羊座の代表する性質を見て取ります。
その対極に位置するのが、「社交界」です。
この象徴には、天秤座の代表する性質が表されています。
社交界とは、ロシア文学なんかによく出てくる、王族や貴族、名家の人々が集い社交をする集まりのことですが、これは上流階級に限った話ではありません。社会的な階層や立場に関係なく、あらゆる場で社交界的関係性を見ることができます。
社会において、より広く、豊かに人々とつながり、人間関係を発展させるために、人は自らをラベリングします。
たとえば、この記事を多くの方々に読んでもらえるのは、私が自分自身に「占星術家を目指す人」というラベル付けを行ったことが大きいはずです。
無名の私が個人的な日記や思いをつらつらと述べただけでは、個人的な知り合いの他に興味を持つ人は少ないでしょう。
このように、気が合うか、一緒にいて楽しいか、優しいか、走るのが大好きかなどとは別の次元でつながるには、「仮面」あるいは「チケット」が必要なのです。
たとえば、占星術家という「チケット」を持っていれば、気が合おうが合うまいが、ユーモアのセンスに満足されようがされなかろうがあまり関係なく、占星術に関心のある人々を集め、つながることができます。
チケットをたくさん持っていれば、あなたはより多くのつながりを得られます。俗に言われる「顔が広い」人とはこのチケットや仮面のバリエーションが多様な人のことなのです。
しかし、そのチケットは本物でなくてはいけません。いくら優しかろうが、気が合おうが、チケットが偽物なら「社交界」からは弾き出されてしまいます。
これが、「遊び場」と「社交界」の違いです。
社交界とは、その人の裸の自己ではなく、求められたペルソナを演じることのできる人々の間で生まれるつながり、つまりは
自我(ペルソナ)の求めるつながり。
これが、社交界で生じる現象なのです。
ここで注意しなければいけないのは、この両極の「つながりの場」は常に同時に存在しているということです。
「遊び場」も「社交界」も幻影、つまりメタファーです。
当然のことながら、この世にゼロ百は存在しません。
限りなくゼロに近いものも、必ず、ほんのわずかに何かを含んでいます。
すなわち、一人の友人との関係性の中に、遊び場も社交界も同時に含まれているのです。
たとえば、音楽の野外フェスで偶然知り合い、お互いに名前も知らないまま大音量のエレクトロミュージックで踊り明かした二人の女性がいたとします。
彼女たちの間には、そのシーズン、その場でそのアーティストの音楽を聴くことを選択したというだけで、すでにお互いの「社交界的つながり」が成り立っており、それと同時に、表情や踊りの様子や声の調子などによって、お互いに「遊び場的つながり」を築き上げることを認め合っているのです。
もちろんこれは一例にすぎませんが、
そもそも意識と意識のつながりには、境界のない「意味のグラデーション」が広がっていて、意識から生ずる経験とは、言葉で分類しない限り不可分の「もやもやとした雲」のようなものなので、無理に「遊び場」や「社交界」といった特徴を選び出すと、どうしてもそういうことになってしまうのです。
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それでも、なぜこのようにして、わざわざ私は人間関係の構造を象徴的に描き出そうとしたりするのか?
眠くなってまいりましたので、次回は、これについて改めて整理してお話ししたいと思います。
もちろん「縦のつながり」についても!
雑記とは言ったものの、長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、スキをおしてください。
指の動きひとつで私の承認欲求を満たすことができます。
ではでは◡̈
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