“らしさ“にまつわる堂々巡り
「高校生らしさ」とか、「あなたらしさ」という言葉は、ときに中身のないまま会話の間を漂い続ける。お互いに、その“らしさ”が分かっていないまま話に至り、どちらもその中身を詰めようとしない場合。高校の教育に関わっていると、そんな場面に時々遭遇する。「高校生らしい視点で、地域の課題を考えてみて」とか、「あなたたちらしい、独自の発想で解決策を考えてみよう」とか。
そもそも“らしさ”ってなんだろう。
また辞書を引いてみる。
どうやら“らしさ”って、特徴のことらしい。
ということは結局、「高校生らしさ」みたいなことを会話にあげたい場合は、お互いに高校生の特徴を知っている、あるいは特徴を知ろうとしないと会話は噛み合わない。けれど普段から高校生の特徴について考えていたり、把握している高校生というのも珍しい。先生だってきっと同じだ。長年の経験から特徴についてわかる場合もあるだろうが、そのことを意識して伝えられる先生は少ないように感じる。だからこの「高校生らしさ」を授業中に聞くと、どこか空虚に聞こえてしまう。
それに、いわゆる“地域おこし“みたいなものに、“高校生らしさ“は必要なんだろうか。誤解のないように補足すると、地域の一員としての高校生は重要だ。高校生がいない地域には、どうしても未来を感じられない。そういうことを言いたいのではなく、高校生に地域課題の解決を求めるときに(求めるのもどうかと最近は思うが)、その解決策に必ずしも“高校生らしさ”を入れ込む必要があるかということだ。そしてなぜこんな話をしているかというと、実際に授業の資料などで、「高校生らしい視点で〜」といった言葉をよくみるからだ。それを目にするたびに、「高校生らしさって必要ですかねぇ」と聞いてみたりする。
そんな“らしさ”。
あまり意識せず、自分自身や身近な人に求めてしまうことも多いのではないだろうか。自分らしさ、男らしさ、女らしさ、こどもらしさ、大人らしさ、などなど。
このそれぞれの特徴が、自分の求める自分の在り方と近しい場合は求められてもなんてことはない。けれど、ズレがある場合はしんどくなることもきっとあって。LGBTQも、そんな“らしさ”の押し付けから解放されるために生まれた言葉と考え方のはずだけど、結局その先でも“らしさ“は存在してしまう(ことがある)。そうやって特徴を見つけて、共通認識にした方が、何かとわかりやすいし、社会生活を送りやすいからだろう。それはよくわかる。けれど、そんな“らしさ”に疲れることは、やっぱりある。
結局なにが言いたいのかというと、“らしさ”って言わなくてもいいじゃん。ということ。自分らしさも探さなくていいはずで。自分のもつ性質に「特徴」という濃淡をつけてしまうと、そっちの方ばかりに引っ張られてしまう。もちろん、その方向に進みたい場合にはあえて遣うのもいいと思う。もっと父親らしくなるんだ!と、理想の父親像を追い求めたいときとか。
でもやっぱり、らしくなくていいと思う。それは、親の責任を放棄していいとかそういう話ではなく。どうしようもないときには放棄してもいいのかもしれないけれど。
これまたなにが言いたいかというと、”らしさ”に引っ張られて、他のことに盲目になるのではなく、もっと隅々まで、自分のことや世界のことを見つめたほうが、人生楽しめるんじゃないかと。もっとも、楽しめるだけでなく大変な側面も増える可能性はあるけれど。
やっぱり自分は、ニュートラルな思想でいたいようだ。
自分らしさを見つけるのではなく、“自分である“ことに意識を向ける。
結局それが、周りからみると三宅コータらしさなのかもしれないけれど。
そんな、堂々巡りな思考が最近頭を巡っていたのでありました。
“らしさ“だけでは捉えられない側面もきっとあって、そこも大切にできる人間でありたい。
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