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入試(音大ピアノ科と言っても短大ピアノ科)

(過去記事:赤いロングコートの続き)


推薦入試が近くなると、髪を美容院で“自然な黒髪″に近い色に染め直した。
ただのおかっぱの市松人形みたいになったが仕方ない。

ルーズソックスの代わりにダサい白のソックス、顔はもちろんすっぴん。


母は大学のある駅前のビジネスホテルを予約し、新幹線で入試前日に出発した。


翌朝、入試会場の大学に着くと知らない高校生ばかり、9割が女子だった。

私は短大の音楽科を受けるので、振り分けられた方に行くと、夏期講習で一緒にすごした紀香&美里ちゃんを見つけてホッとした。


1番のメインイベントである実技試験…さすがに緊張してきた。
ハノンのスケール&アルペジオは当日、試験官が指定した調をその場で弾かねばならない。
実技試験の教室の前の廊下に、受験番号順に並んでいると、前の方の人のピアノの音が聴こえてくる。

ハノンのあとは、皆ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンのソナタの1楽章または終楽章を弾いている…


試験やコンクールのとき、皆自分より遥かに上手く聴こえたりする、分かっていても皆の演奏が耳に入ってくる。


私の前の人の番になった。


ハノンのスケール&アルペジオはその場で指定される。a-moll(イ短調)だ。案外簡単な調を出すんだな…その後に聴いたことのあるベートーヴェンのソナタが続く。
提示部、展開部、再現部に入ってちょっと経ったくらいで、チーンと終了のベルが鳴った。


ついに自分の番だ。

試験官は3人いるが、ビゼー教授はその中にいない、どこにいるんだろう…。

試験官に一礼する。

『それではG-dur(ト長調)のスケールとアルペジオを弾いてください。終わったら持ってきた課題曲を弾いてください。』
メガネをかけた中年の美しい巻き髪をした、いかにも音大の先生らしい試験官が語りかける。


G-durか…シャープ1個しかないな…思ってたより弾きやすい調出すんだな…。


スケール&アルペジオを一気に弾いても1分にも未たない。

その後、ベートーヴェンのピアノソナタ7番の1楽章に入った。
まず呼吸をして…4拍目からだから間を考えて…オクターブは丁寧に…

私は昔から試験やコンクールになると、頭が真っ白になり、日頃練習していたモノがそのまま演奏に出る。指が覚えていて勝手に動いた。
提示部、展開部、再現部…

「チーン」終わりのベルの合図だ。

一礼して退室した。
私の後にもたくさんの受験生が並んでいる。



実技試験…この“一瞬″のために、ずっとずっとずーっと絶え間ない練習を重ねてきたんだ。
いつもそうだ。
緊張しようが、音を外そうが、全てはこの一瞬のため…終わった。

あとで他の人に聞くと、ハノンのスケール&アルペジオは基本的な調ばかりだった。
なーんだ、24調アホみたいに練習しなくてもよかったんだ…いや、やっておいたから良かったのかも…その時は分からない。



聴音と新曲視唱の試験は難なくできた。




あとは面接のみ。マンツーではなく、受験番号が前の人、私、後の人、3人一緒だった。

面接会場での立ち居振る舞い、聞かれた事だけを要点をまとめて答える、音高を受験した時の経験が役に立った。

私の一つ前の受験番号の人が、何を思ったのか、突然ベートーヴェンの批評をし始めた…オイオイ何だか変な空気になってきたぞ…でもさっき実技試験でベートーヴェンのソナタ弾いてだよな…


試験官が苦笑いしていた。
「キミ、面接でそういうコト言うの、不利になるから気をつけたほうがいいよ…』

苦笑いしながら、年配の男性試験官が彼女をたしなめた。その子はベートーヴェンがお好きでないらしい…。(でも面接で言うか⁈)

まぁいい、試験官は優しい、それはそれ…人のことだ。


全ての日程が終了し、クタクタになった。


やっと終わった…いや待てよ…


推薦入試だ、落ちる事だってある。
もし受験に落ちたら1月の一般入試で同じ事やるの?それも3教科つきで…。



紀香&美里ちゃんとは、『入学式で会おうねー!』と景気のいい話をしながら別れた。





合格通知は意外にも早く届いた。
嬉しいというより、ひと安心。
これでしばらくの間、緊張感から解放される。



正直な話、あのスケール&アルペジオと古典派のピアノソナタで落ちる人がいるのか…?と思うくらいの感触であった。
四年制やレベルの高い音大の試験なら、バンバン落とされたり、他の人の演奏を聴いて恐怖に慄いたりするんだろうな…


ビゼー教授が、初顔合わせのとき
『僕は基本短大からは門下生取らないんです…』
と言っていたのを思い出した。







早々と推薦入試を終え、珍しく朝から高校に登校し、もう自分のやるべき事は全て終わったような気がした。


他の人はセンター試験まで2ヶ月を切っている。



朝のホームルームの時間が終わっても、担任のミスター佐々木から何も言われない…

アレ?この人、私の合格発表のこと忘れてる?

教室を出て行こうとする、リンゴスターの頭をしたミスター佐々木に近寄ってみた。



『おっ!!橋本さん、合格良かったね〜!おめでと。それよりさ、橋本さんが音大受けるっていうから俺、大学まで説明会行ったんだけどね、懐石が出てきたよ、懐石料理!教職員用にだよ…ひえぇ〜!だったわ、すごいね!』


『……』



…やっぱりウチの担任は軽い、軽すぎる。

生徒の合格通知より、自分が出張で音大まで行った際の懐石料理や、大学側の“もてなし”に感動していたようだ…何てヤツだ。
まぁいい…軽いのは最初から分かってたコトだ。


私の受験は終わったんだ。




12月の初旬、ひと足はやく推薦入試を終えた私は気分ルンルンだった。



よし!!冬休みまでにもバイト入れて、冬休みも3学期もバリバリ稼ごう!


一人暮らしで使う家電など、自分で選びたかった。母の言いなりになってきたが、一人暮らしの道具だけは、ある程度自分で選びたい…それなら自分で稼いでから母に直談判だ。





親友のみっきーを始め、友人たちも喜んでくれた。


『いいなぁ…もう終わったんだ…』


『まぁ、実技系の短大だからね…』


高校では遊び呆けていたので、不思議がる人たちもいた。
いや、実技系の大学もソレはソレで大変よ…
でもそれは、いくら話したところで、受けた者にしか分からない。


まあいいや!!終わったんだ!



母は急いで入学金を振り込んでいた。

祖父母も喜んでくれた。



高3のクリスマス…皆受験生なので、私はスーパーレジのバイトくらいしかする事がない。



クリスマスがなんだ!ケンタッキーでも食ってやる…バイトをフルで入れて稼いで、自分のお金で好きなもの買うぞ!



私の音大入試…と言っても短大の音楽科のピアノ専攻なんだけど…はあっけなく終わった。





※東京にあるハイレベルな四年制音大の入試は、こんなもんではありませんのであしからず!




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