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できることをやらない
できない子が自分
私は楽譜が読めない。中学の音楽の授業で〈発表〉があった。一人でも誰かと組んでもOK。何の曲でも自作でもOK。それを皆の前で発表する。順番は立候補した順だったと思う。
組む相手もいなかったので、私は雑誌の付録にあった歌本から簡単な曲を選んでリコーダーで練習をしていた。そして吹けるようにはなった。
そして発表の日には、つっかえつっかえ、演奏を中止したりしながら、最期まで吹かなかったように思う。何でちゃんと演奏しなかったのかわからない。演奏しているときも「このままちゃんと吹いていいのか?」を考えていた。
この場面を思い出した時に〈何故そうしたのか〉自分がわからなかった。そしたら他の場面でも似たような事をしていたのを思い出した。
英語の授業だった。当時兄貴のついでに家庭教師に見てもらっていた。兄貴が週2回。私が1回。何故についでにかというと「ついでに見てもらう」と言われたから。
スラスラと音読できるようになっているページの音読を授業で当てられた事があった。やはりとスラスラ読む事に抵抗がありワンフレーズづつ区切って妙な間を開けて読んだ。
Mr.Kuroyanagiは見抜いたようで「Huh. 君は次の1行を黙読して確認してから音読するんだね。そうゆう方法もあるね。いいよ。いいんだよ」
できない自分でいるのを失敗した私は動揺していた。
試し行動
ネットで検索すると試し行動と言うらしい。愛されているか試す、許される許容範囲を確認するなどと出てきた。当てはまるのかどうか微妙なズレというか違和感を感じた。
HELP
大人になった今振り返ると、試し行動というような生易しいものでは無いように思える。当時の私を私はきちんと思い起こせていない。高校生の頃に「出ていけ」と怒鳴られて言い返した言葉をヒントにすれば、出来ない自分を見せることで「一人じゃ何もできないから助けて」というHELPのサインだったのだと思う。そのために何をやっても〈できない自分〉でいる必要があったのかも知れない。
中学2年
幼少期の記憶を中学2年で区切ったのには訳がある。中学2年辺りから母は私の存在を無視するようになった。朝ごはんは食べなくなったと思う。給食だったのでお昼は学校。夕飯は飯時に現れれば自分でご飯をよそって食べた。会話は皆無。たぶん兄も私を無視するように言われたのか、その行動に乗っかっていた。二人とも私を怒鳴るか叩くか以外の関わりは無くなった。
見た目も行動も目立つことが無い私の内面は中2病の黒歴史時代に入っていったのだと思う。見事に記憶がない。
授業中はかなりの頻度で母を○すことを考えていた。私は悪くない。なのにそれで刑務所に入るのは理不尽だ。だったらタダメシ喰って独立するまで我慢するしかない。
このおぞましい14歳の女の子を私はそのまま受け入れなければならないのか?…それ以前に、そのまま私の中にいるのだと思う。