呪いの言葉
画像はオオイヌノフグリ。子どもの頃からスキだったと思う。けれども女らしい物を好きになってはイケないような気持ちで育ってきた。
吹奏楽部
小学校3年生から課外活動として吹奏楽部か合唱部に入ることが出来た。
カッコいいトランペットに憧れて入部したが楽器が足りない。上手な順番に希望の楽器に採用され、落選者はその他の楽器に回される。「お家に人に頼んで楽器が買って貰えた人はその楽器ができる」と先生に言われた。
「一生続けられるか分からない物にお金は掛けられない」その時から新しい呪いの言葉は生まれた。私が何かを新しくチャレンジするには一生続けられるか否かを問うことになる。
母の命題
この家は私の代で17代目だ。ここの〈私〉は母である。
この家を兄弟で分けて相続しても小さくなるだけで何に価値もなくなる。だから家は長男が相続して、妹二人が困っていたら助ける。
お前はこの家から出ていく身だ。だからといってどこの馬の骨だか判らない男を好きになったからといって結婚していいわけじゃない。人間には分相応という釣り合いが大事だ。しっかり調べなくてはならない。晴れた惚れたと言って出ていって、何処かで野垂れ死んでも結局最期は親が面倒をみなければならない。
母はAちゃんを毛嫌いしていた。私より2歳年上の小学生で習い始めた日本舞踊の先輩だ。夏祭りの練習で楽しそうに踊っていたのを見て習わないかと声を掛けられたらしい。当時の私は夏祭りの踊りと日本舞踊の違いもわからずに習い始めた。私より先に習いに来ていた先輩がAちゃんだった。
「あのちくさで(方言:幼さで)男にシナを作って話す仕草を見るとムシズが走る」
こんな言葉はあらゆる機会に母の口から出てきて、Aちゃんの仕草はすべて拒絶の言葉に置き換えられていった。「大人の顔色を伺う子どもは嫌だ」そう言う母の顔色を私は常に伺っていた。
そんな言葉に縛られたためなのか自覚はないがボーイッシュに育った。中学に入って周囲の女の子たちがアイドルに夢中になっても異性に興味は無かった。ファッションやメイクに興味を持つことにも嫌悪感があった。
「世間では給料日だからと外食したりするけれど、ウチはしない」そんなセリフもよく聞いた。外食とは母が夕飯を作らない日に近所の定食屋に行くか、出前を取るかで〈食事を楽しむ〉という発想は無かった。それは私がグルメという言葉を苦手に思うベースになったように思う。
進学
兄が高校2年で進路の選択時期になったとき、私が中3になっていた。
それはもう〈進路の選択ってこうゆうことなの〉と驚くことだった。
近所の大学4年生が家庭教師になり卒業前に後輩に受け継ぐ形で毎年違う家庭教師が来ていた。歴代の家庭教師たちが母の相談相手として呼ばれていた。県外に出ること、将来家業を継がせるためにプラスになる方法、母の目論見は想像できない。連日のてんやわんやを見せられた。
兄が高校2年と言うことは、私も受験生だ。小学生時代から繰り返し言われていたのは「4年生の大学を出た女なんてトウが立っていて嫁の貰い手なんてなくなる。何処に進学してもいいが家から通える場所。短大位はでておきなさい」時代錯誤すぎて通じないかも知れないが私は昭和40年生まれだ。
前述したとおりに、私は中学2年から母と兄から無視をされている。何の権力があってか知らないが兄が「俺の担任が妹を(俺と同じ高校に)寄越せと言っている。性根を叩き直してやると言っている」という事で意味わからないが校長推薦なのか私学に進んだ。
私自身は海外脱出を目論んでいた。親の承諾さえあれば現実可能なところまで調べられたと思っていた。「留学するならば結婚して相手がいいと言ったらしなさい」何も言い返さなかった。それ以前に言い返すことも意見を言うことも許されていなかった。
そんな事で校則が厳しいという私学に進路が決まりそうになり私は嫌だと言いはった。制服のスカートが嫌だった。そもそもスカートを履いたことが無かった。ファションに興味が無い私がスカートを履かないのは、ただ単に母が買って来なかったからである。
親に無視されているので大抵は自室に居る。夕飯を食べに部屋から出ている時にしか親と顔を合わせないので、夕飯の時は揉め事タイムとなる。
「毎日メシドキになると怒られるのをヤメなさい」とある日父が怒鳴った。
私は母譲りの毛深さが嫌でスカートを履きたくないと泣いて叫んだ。「剃るなりなんなりすればいいじゃないか」という父に、母はいかに剃るのが悪く、毛が太く濃くなるかを説明していた。(ちなみに母はワックス脱毛)
父の「自分の責任で剃りなさい」という言葉に「カミソリ持ってないし、もう何年も小遣い貰ってない」と伝えると「お父さんの使いなさい」と言ってくれた。そのまま風呂場に行きスベスベになって脚を父に見せたのを覚えている。
成績は悪かったが私学の受験科目の3教科は悪いなりに得意科目だった。そこにラストスパートを掛けてしまったのが災いして進学クラスになった。
強運なのか悪運なのか、小学校から中学/中学から高校と、顔見知りが1人もいないクラスになった。しかし、高校では兄を教えている教科担任は「兄貴より~だ」と比較してくる。できない私を助けてのスタンスではいられなくなってしまった。
当然のように周囲は4年生の大学を目指している。家から通えるエリアには大学はない。ギャップを埋められなかった私は高校2年で家出をしている。
ひと夏、住み込みで働いて過ごした私は何かを学んだのだろうか?
学費のために親を利用すればいいんじゃないかという気持ちで戻ったのである。