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金木犀
私が一番最初に好きになった木かも知れない。それは1年生の教室の前の花壇の隅に植えられていて、スクっと立ち上がった幹にアフロヘアのような茂み。子供の描く【木】の基本形のような佇まいで、目立たず、気にも留めることもなくそこにあり、年に10日間ほど強烈な個性を発揮する。
いい塩梅の香りというにはキツく、それでも鼻腔が匂いを求めてしまう魔性の香り。そんな幼い頃の〈あの木〉は、改築とともに姿を消していた。
だがしかし、通勤路の古民家の奥まった庭から巨体を現し、トタン塀から頭を覗かし周囲に香りを届けている木があった。いや、過去形ではない。今日もその姿を目にして鼻をクンクンしながら通勤してきた。
それなのに「木があった」と書いてしまうのは、去年もこの道を通って通勤しているのだ。私の鼻は去年何をしていたのだろうか??
仕事に行くのが楽しすぎて、こんな強烈な個性にすら気が付かないほど浮足立って通勤していたのだろうか?それとも彼の三周忌がショック過ぎて何も気が付かなかったのだろうか?
だとしたらヤバすぎる。三周忌の前後であっても職場では私の精神状態の変化など誰も気がついてはいなかった。それでもアノ匂いに気が付かないような精神状態で通勤していたのだとしたら、よく事故にあわずにいられたものだと思う。
彼に金木犀が好きだと言うと決まって「むかしトイレの窓の横に金木犀があって、だから金木犀はトイレの香り」とても残念な話になり、金木犀の入浴剤を諦めた。それでも二人のお気に入りの八朔の入浴剤というのを発見できた。この事を思い出して、彼が苦手とするものでも私の好きが維持できているのだと感じた。海や海鮮のように、彼が海を好き過ぎたために今は近寄り難く感じるものはあるけれど、そんなハードルもちょっとした機会があればすんなり超えられるのかも知れない。
落ち着き
彼を喪い、引っ越しをして身辺を整え、一呼吸して周囲は私が落ち着きを取り戻したと思った頃からドツボにはまったように落ちた。死別から半年後が一番辛いとか1年後だったとか1年半だったとか...、自分で解らないくらい一番キツイ時期がずっと続いていた。三回忌が過ぎて就職しなきゃ...と、重い腰を上げたら簡単に採用され、即研修、即配属。世間で言う〈日常〉に身を置いてはいるのだが、彼のいないこの世で生活しているという現実を〈日常〉と感じられずにいる。
深い海底に沈んでいた私が海面まで浮上したのか、まだ浅瀬にいるのか、人間の生活圏内の地上にいるのか、そこらへんが全くわからない。〈落ちている/落ち着いている〉という2つの状態の差が判断できないでいる。
世間的には、落ち着いて明るく過ごしている人なのだろう。まさか一日に何度も隠り世(かくりよ)に心を飛ばしているヤバい人だとは思われていないと思う。〈日常〉とか〈落ち着き〉という世界観が変わってしまっているので、この判断基準を設けないとグリーフから抜けたのか最中なのか曖昧である。少なくても、曖昧と感じられる程度の立ち位置に居るのだけれども。
どこから逆になったのか
前回の話を書いてから、どこから逆になったのかをずっと頭の中で転がしていた。
残念ながら、私や彼の力如きでこの世は壊れない。話はどこから逆になったのか。彼がデコボコな私を受け入れてくれたから素晴らしいのではなく、彼にデコボコな私をそのまま見せることができたから、まるっと受け入れてくれたのかも知れない。
彼が受け入れてくれた〈ありのままの私〉とはどんな私だろう?
誰に気兼ね無く暮らしている今の私とどこか違うのだろうか。そんな事をつらつらと考えていた。
話はとんでもない所から逆だったんだ。彼がありのままの私を受け入れてくれたから素晴らしい人で安心して信頼できて愛していた。る。
問題は、そのありのままの私を、〈私が受け入れていない〉ところのようだ。
社会人になってから私はガムシャラに働いてきた。職が変われど〈できる人〉に憧れたし、なりたかったし、成長を求め続けていた。無論、それは悪いことではないのだが、根底に〈このままの私じゃダメなんだ〉と思っている部分があったのが問題だ。
毒親育ちだからこそ「私が私のままで存在していても大事な存在なんだ」という意識が欠如していた。自己肯定感を高める前には自己否定を止めなければならない。そんな原点を見つけた気がする。
インナーチャイルド
インナーチャイルドの本質とは違うかも知れないけれど、私が辿り着いた結論は、彼が受け入れてくれた私=私が受け入れて許容していい自分=ありのままの自分を自分が受け入れるという簡単な答えだった。
多分これからもグルグル考えたりするんだけれど、それでもいいじゃん。
私と彼は俗に言うグルグル思考を〈立体思考〉と呼んで受け入れていた。思考の断片同士が結びついたときに新しい答えやチャンスが生まれた。それはビジネスでも活かせたし、楽しかった。
だからそれでいいんだと思う。それも自分なんだ。人と違っているんだから自分なんだ。