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お父さん、もういいよね

いまだにどう言ったらいいのかわからないけれど、こんな暑い日が続いていると、夫と娘と三人で、父の納骨をした日のことを思い出す。
自分たちだけで、とてつもなく重い墓石を上げて骨壺を暗くてじめっとした狭い場所に置いた。
三人とも暑くて汗だくで、ジージーと蝉がうるさく鳴いている音しか耳に聞こえてこなかった。

夫と娘の関係を見ているといいなって思う。
世の中の、お父さんとうまくいっている人や、そうでなくても、お父さん、やんちゃで憎めないの。お父さんを尊敬してるって、そんな風に思える関係の人をいいなって思う。
自分の父親との関係をするすると書ける人も凄い。
私と父との関係をどう言ったらいいのか、全然わからない。
書こうとすると、うーんっと唸ってしまう。
それでも私は父のことを書きたいのだ。

「おまえが可愛かったのは三歳までだったなぁ」
私を見るたびに父はそう言った。

一番小さな頃の記憶は、母を殴る父の前に手を広げて立ったら、殴られてポーンと保育園のベレー帽と一緒に自分も飛び、タンスに頭をぶつけたことだ。
口から血が出ていたけれど、父も母も自分たちのバトルに夢中で私のことは一切見向きもしなかった。
その瞬間、なるほど。私の人生ってこんな感じなんだろうなって思った。
父も母も本当に他人には善人で、素敵な二人だったし、私も兄もいい子をしっかり演じていた。お客さんがいるときは、なんて素敵な家族なんだろうって錯覚するくらいに。
両親は家族より他人を大切にする人たちだった。
夫と結婚するときも、親戚一同の前で「俺はこーゆー女が大嫌い」と私のことを指を差して言った。
とにかく私は、父に嫌われていた、と言うか、母にも嫌われていた。
両親は私が優しくないから嫌いだと言う。兄は優しい。とも言っていた。
母が言う父の愚痴やよそ様の悪口に付き合えないことや、父がお酒を飲んだまま車を運転して出かけるのを駄目だと言うことが、優しくないらしい。
私は「そんなの違うと思う」「自分で選んだことだから自分に責任がある」と小さな頃から両親に言っていたので、二人とも私のことが苦手だった。
だけれど、両親の仲がどんどん険悪になって会話をしなくなったときは、私が二人の通訳になりお互いの気持ちを伝えたりしていた。
そんな変な関係にほとほと疲れていたのが正直な気持ちだ。

ジェットコースターのような人だった。
父のことを表すならそう答える。
落ち着いて、安定して、そんな言葉は父を表すのには必要ないのだ。
その年私は、大殺界、裏運気、その他もろもろ人生の大厄年だっと思う。

「どういったご関係ですか?昨日は何をしていましたか?」
警察の人に人生で初めて取り調べを受けた。
「娘です」
私は父の娘なんだ、と当たり前だけど思った。
私の横には夫とその当時小学生だった娘がそばにいて、離れたところに青ざめ憔悴しきった兄の顔が見えた。
警察官の制服は作りがしっかりしているなぁ。コスプレ用とは違うなぁ。
こんな時なのにまじまじと制服を見つめた。部屋が寒すぎる。寒い寒い、どうでもいいことばかり考えていた。兄からのメールで内容は知っていたけど実際に話を聞きたくなかった。
「毎日行っていた飲み屋さんから、昨日は来なかった、心配だから様子見てきて」
と父の友達から兄のところに連絡が来て、しぶしぶ様子を見に行ったら
父は首を吊って死んでいた。
私の部屋で。
兄は
「玄関開けたら、もう空気が違った、怖かった」
小さな声で後から話してくれた。
義理の姉が警察や消防署に連絡をして、夜中まで大変だったそうだ。
その日、兄は私に様子を見てきてくれと連絡をくれていたが、私は高熱が酷く起き上がることも出来ないでいた。

春、父が命を絶つ前に、母が家を出て行って、実家には父一人だった。
病気持ちのくせに、お酒もたばこもやめられず、毎晩飲みに行って生活は荒れていったと思う。
仕事にもいかなくなり、毎日
「死にたい。死にたい」
と、メールが届いていた。
「春休みになったら、娘とお掃除しに行くからね」
そうメールをしたのに、その日を待たずに、一人で死んでしまった。
そっか。
そう思うのが精一杯だった。
父と最後にあったのは数か月前だったか、思いだせなかった。
私はその頃、熱や痛みで毎日しんどかった。病状が出ていたけれど、その当時何の病気か分からず、痛み止めを飲んでも痛い体のまま忙しく過ごしていた。

夫と私、警察官二人で、さらに寒い部屋で話し合うことになった。
「お父さんとは連絡を取り合っていましたか?」
「メールでやり取りしてました」
「すべて見せてください」
え? すべて? 嫌とも言えないし、携帯を渡した。
ベテラン警察官さんの横に、新人さんなのか、私のメールをデジカメで撮影していた若い警察官が
「メモリがなくなりました」
上司であろうベテラン警察官に伝えていた。上司の警察官は「えっ?」って表情をしている。駄目じゃん!! 心の中で突っ込みをしていた自分に、この状況でもそんな風に思えるんだ、自分に感心した。
私と父とのメールのやり取りを見て
「わかりました。いろいろと大変でしたね」
ねぎらいの言葉をいただき有り難かった。
部屋中は冷気が漂っていて、耳がじんじんと痺れていた。
「お父さんは人間関係に悩んでいた、一人で寂しかった、のでしょうね」
そんな感じに言われたような気がする。
これから大変だよね、っと頭の中でいろんなことを考えていたので、警察の人が言った言葉が頭に入ってこなかった。
夫も取り調べを受け、先に来ていた兄と母も事情聴取は済んでいた。
死んだ父の悪口は言いたくないけど、問題がありすぎて家族みんな黙り込んでいた。
家族が亡くなるのは初めてのことだし、しかも自殺で、どうすればいいのか、まったくわからなかった。
警察の人が何かを察してくれて
「葬儀とか、こういった特殊な場合を対応してくれる会社があるので紹介しましょうか?」
親切に教えてくれた。
事件性がないか、警察の人はいろんなところをチェックしていた。
しばらくして、お医者さんが来て父の遺体を見て、死因を判断してくれた。
「気を落とさないでください。もしね、つらいようならこういった機関があるので」
自殺をした遺族の会のようなもののパンフレットをもらった。
今まで自殺について真剣に考えたことはなかったし、まさか身内から自殺者が出るとも
思っていなかった。
遺族会に行って他人の悲しみを聞けるほど余裕はない。
私より兄の方が心配だからパンフレットは兄に渡すことにした。
父の車の中を見せてほしいと言われたので、夫が対応してくれた。
「皆さんのお話を聞いていてわかっていましたが、こういった方なんですね……」
父の車の中はくちゃくちゃで、たばこの吸い殻がいっぱい袋に入って捨ててあったのを見て警察の人が言ってたと、夫が後から話してくれた。
お父さんらしいな。
片付けも何でも適当でやりっぱなし。家族みんなが父の後始末をしていた。
最後の最後まで後始末をたくさん残してくれた。
借金はないか? 保証人になっていないか?
どこに何をしまってあるのか?
これからどのくらいの時間をかけていろんなことを片付けていかなくてはならないのか。
そう考えただけで逃げたくなった。

「お葬式の費用はないよね」
「ないよ。お金貸して欲しいってメール頻繁に来てたし」
「借金とかないよね?」
兄と夫、私でこそこそと話し合った。母は全くノータッチだった。
さっき警察の人から紹介をいただいた葬儀屋さんに連絡したら、すぐに来てくれるとのことでとても助かった。
お父さんがいつ死んだのか、おおよそしかわからなかったので、早く葬儀をしたかった。「お父さんに会った?」
兄がぽつりと言った。
「まだ」
私と夫で二階の部屋に行き、毛布をかぶっている父を見つめた。
そっと顔であろう部分の毛布をどけた。
驚くほど綺麗な、穏やかな顔をしていた。
生きているときに見たこともない表情。
本当に穏やかだった。
首吊りで死んだ人は遺体がひどいと聞いていたのでびっくりした。と同時に
「何やってるよ……ほんと、何やってるよ」
父に向かって何度も何度も、同じ言葉を繰り返し言うことしかできなかった。

次の日、二階から父の遺体を兄と夫と葬儀屋さんで一階に運んだ。すごく重かった。夫が疲れた顔で言った。この先まだまだ疲れるのだろうな、嫌な思いが頭に浮かんだ。

「お父さん、おまえからのメールだけ残して、りぃりの手紙を枕元に置いて
死んだよ」
兄が涙声で言う。
その携帯と手紙を自分の鞄に乱暴にしまった。

 人生初の親のお葬式。いろんなお葬式を体験してきたけど、兄も私も盛大に父を送るだけの費用はないので、お葬式はできないと思っていた。でも警察が紹介してくれた葬儀屋さんがとてもリーズナブルな金額で葬儀をできると言ってくれた。死亡診断書やら、手のかかることもすべてしてくれた。
こういった、なにか問題がある人用の葬儀屋さんが存在することも知った。
それから
おくりびとの方が女性でまだ若いのにびっくりした。
まるで鶴の恩返しのように、「作業が終わるまで、決して扉を開けないでください」と言ったような、言わなかったような。畳の部屋の襖を閉め一人で作業をしていた。
一時間くらい経ち「一緒におねがいします」と声をかけられ足などの紐を閉める作業をした。三途の川で必要となるお金、偽物だけど持たせた。ひげも綺麗に剃ってあり穏やかに微笑んでいる父がいた。
よく聞くセリフだけど、ただそこに寝ているみたいだった。
兄と夫と葬儀屋さんでお棺に入れた。葬儀屋さんが帰ってから
「少しわがまま言っていいかな。お父さんの手握りたいから蓋開けてもらっていい?」
思い切って言ってみた。
「全然いいよ」
兄と夫でお棺の蓋を開けてくださった。
職人だった父の手はゴツゴツしていてまだ柔らかかった。
おでこも撫でた。
いい子いい子と撫でた。
今までお疲れ様、もうゆっくりしてね。涙と一緒に父につげた。

「今夜はここに泊まろうか」
兄の言葉に私は黙って頷いた。
実家に泊まるのは何年振りだろう。広い家にポツンと一人で生活していた父。
兄と私と、甥っ子と娘で泊まることになった。
夫は父が経営していた会社のことで忙しく夜中には戻れるよ、と連絡があった。
春休みでよかった。
家の中の布団や毛布をかき集め
父が寝ている部屋で、兄と甥っ子は寝て、私と娘はリビングで横になった。
「あのさ、俺の掛けてる毛布、昨日までお父さんが掛けてたのだよね……別にいいけど」
ちらっと見たら、確かに遺体で検死の為に裸にされていた父の遺体にかけてあった毛布だった。
なんだかものすごく面白くなって布団にもぐって大笑いしてしまった。
兄も笑っていた。
人間悲しくても笑えるんだ。
笑いながら涙が出た。

「お通夜みたいなもの、やったほうがいいと思う」
兄から言われたけど、私もそう思っていた。自殺をしたけど、顔は綺麗だったし、首のあざも、おくりびとさんが綺麗にしてくれた。飲み屋の友達は自殺って多分知っている。
父の兄弟、母の兄弟には知らせないといけないのでは?ずっと思っていたので
私も同意した。
「お葬式は家族だけでやります。お香典とかいりませんので、よかったらお別れしに来てください」
兄と私で連絡した。
父の飲み友達はみんな泣いていた。バンド仲間もがっくりしていて、父のお姉さん、お兄さんも、悲しんでいた。母の兄弟も父のことが大好きだったので、驚いて辛そうだった。
親戚や、仕事関係者には自殺とは教えないで。と母と兄に言われた。
言わなくても多分あっという間に知れ渡ると思うのに、そう思ったけれど言わないでおいた。
母は一度も涙を見せなかった。
きっと母は父のことを、父にされてきた様々なことを許せないんだ。
それでもいい、と思った。
母がされてきたことを私は一番知っている。
だからいいんだ。
泣かなくても、許さなくても。

急な出来事で私も兄も気持ちがいっぱいいっぱいで、来てくれた人にしっかりとした対応ができていなかったと思う。
寒くて長い一日だった。

次の日は雨だった。
晴れ男だったのにね、お父さん。窓の外を見て思った。
もう一度だけ父の顔を見ておでこを触った。
また涙が出て、私お父さんのこと好きだったっけ?
疑問に思いながら涙をぬぐった。
あっという間に骨になった父を抱えて家に戻った。

それから毎日忙しくて、私は夫とたくさんの人に謝ったり、書類を片付けたり寝る暇がほんとうになかった。

父が勝手に建てた住みにくい家(といつも母が言っていた)を売ることになり、その片付けのほとんどを夫と私でした。
おそろしく物が多くて、一体いつ片付けが終わるのだろう?と気が遠くなり、不安になったくらいだ。
実家の電気は止めてあったので、夫は仕事帰りに真っ暗闇で片付けをしてくる毎日になった。
「はやく部屋を綺麗にしてあげたい。そのままにしてあったらお兄ちゃんつらいだろうしね」
そう言って父が死んだときに使った器具を早々に片付けてくれた。
夫は優しい。
あのさ、夫にこんなことさせるなよ。そんな風に父に言いたかった。
そして夫の優しさに感謝しながら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
季節が夏に変わり、水道だけはまだ使えるようになっていたが、電気は止めていたので
汗をかきながら黙々と部屋を片付けた。
ぞうきんで床を拭いているのに、汗やら涙やらで床が濡れていく。
一息つくために寝転んで父のお骨の入った骨壺を眺めながらいろんなことを思い出していた。

大人になって
父や母のことを理解しようと私なりに一生懸命向き合ってきたつもりでいた。
母から
「お父さんに似ていて嫌だ」
と言われ続けていたので
私も父のように暴れたり、借金とか作るようになるのかいな?と思っていた。
けれど、そんな風にならなかった。
父と見た目が似てるから、母は私が嫌いなんだな。
それは仕方ないので許してもらいたい。

父がいなくなり眠れない日々が続いた。
自分が頑張っていれば、父は死ななかったかもしれない。
そんな風に、毎日毎日思った。
自分を責めた。

誰かがくれる慰めの言葉なんて、なんの役にも立たなかった。
それでも、自分の中で気持ちを整理したくて、死についていろんなことを調べたり聞いたりした。
同じように、親が自殺した人たちの本を読み
ようやく自分の中で納得し、落ち着かせることができた。

父が嫌いではなかった。
でもなんて言っていいかわからない。

小学生の時、近所の家族と一緒にボーリングに行く約束をしていたのに、
当日、突然父は行けないからと言ってきた。
私は友達の家族とボーリングに行き、そこで父が飲み屋の女の人たちと楽しそうにボーリングをしていた姿を見つけてびっくりした。
父は私とすれ違ったのに、無視をして通りすぎた。
私は「お父さんがここにいるのが友達や友達の家族にばれませんように!」とずっと祈っていた。
すごくさびしくて、惨めな気持ちだった。

そんなことばかり
そんな思い出ばかりだけれど、
小さな頃、熱がでて病院に行くことになり
買ったばかりの車にゲボっと吐いた時、父は何も言わず片付けてくれたことも覚えている。

怖い悲しい辛いことが
たくさんあったけど
嬉しいとか、笑えることもあった。

父はすぐに仕事を辞めたり、お金もすぐに他人にあげてしまうし
困った人だった。
それでも、晩年は会社を経営して頑張っていた。
社員にお金を持ち逃げされたり、借金だらけになっていたけれど。
困った人を見るとほっとけない、
優しくて弱い人だった。

父と母が仲良く楽しく
暮らせたらいいな、と
そんなこと幻想なのに、なんとかできないかって子供の頃から思っていた。
どんな人でも私の父と母だから、幸せであってほしいと心から思っていた。
でも、結局バラバラになった。

「私、お父さんのこと書いていきたいけど、いい?」
お葬式のあと母と兄に聞いてみた。
「いいよ」
二人ともどうでもいいといった感じに返事をしてくれた。

今も父のことを考える。
うまく言葉になんてできない。
書きたくても苦しいだけ。

父とやりとりしていたメールを
読み返すといまだに胸が苦しくなり全部読むことが出来ない。

世の中の多くの人は
ほんわかな話が読みたいのにさ、
お父さんのことを書くとき、全然ほっこりも、にっこりも書けないのよ。
そう言うと「おまえの技量がないからだ」ってきっと言うよね。
私のことは褒めてくれたことないし。
それでもいつか笑える話を書いてみたいよ。
全力で、お父さんとぶつかり合ってきたのに、理解されなくて
本当にしんどかった。
その一つ一つを忘れたくないから私はお父さんのことを書いていくし、
いつだって、家族の物語を書きたくなるんだよ。

娘がお父さんに書いた
「じぃじ大好き」って手紙に
ありがとう。なんて返事を残していかなくていい。
しっかり娘に声に出して伝えてほしかった。

お父さんの誕生日に送った私のメールだけ
残していかなくていい。
私は優しくないから、送ったメールのあとに
『もっとしっかりしてよ。今の状況つくったのは自分なんだよ』って書いたんだよ。
でも、誕生日の日にそんなこと書いたら気の毒だよなって、消したんだよ。
優しくないけど、意地悪な人にはなりたくないから。
だからそんなメールを残して死なないでほしかった。
きっとずっとお父さんが残していった心の傷は癒えないよ。
癒えなくても、いいって思っている。

お父さん、もういいよね。
自分の気持ちを吐き出しても。
どうして私の送ったメールだけ残していったの?

「お父さんが生まれてきて、
私が生まれて、娘が生まれてきて
よかったって思っています。
育てていただきありがとうございます。
お誕生日おめでとう」

あの日、父に送ったメールが、
今も私の心を締め付けている。

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