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下宿、コモン、謎の坂――夏目漱石「自転車日記」のロンドン郊外へ

1902年、ロンドン留学中の夏目漱石は、35歳で自転車に乗り始めた。その時の七転八倒を自虐的に語ったのが短編「自転車日記」である(未読の方は最初にどうぞ)。8月にロンドンへ行ってその舞台を訪ねたので、散漫ながら記録しておきたい。なお、「日記」に描かれた苦難の主要因と思われる自転車の種類については以前あれこれ調べてみたので、興味のある方は合わせてどうぞ。

1. ザ・チェイス81番地の下宿

まずは漱石の当時の下宿から。The Chaseという通りの81番地、建物の2階に彼は住んでいた。ある日のこと、大家の婆さんから「自転車に御乗んなさい」と言われた彼は(渋々)これに従う。2016年9月まではここがロンドン漱石記念館となっていたそうだが、残念ながら閉館していて中には入れなかった(再オープン準備中とのこと)。

2. 自転車を入手したラヴェンダー・ヒル

「日記」によると、漱石は知人に伴われ、近所のLavender Hillへ自転車を買いに行った。The Chaseを下宿から北へ抜けたところにある大通り、それを西にちょっと進んだ辺りのことをそう呼ぶらしい。小さな店が色々と並んでいるが、ちょっと通りかかっただけでは1902年に自転車屋があった場所は分からない。寄ってみようと思っていたGet a Gripという自転車店(2011年から営業)も閉まっていた。歩いてみた感じ、なかなか雰囲気の良い界隈だ。

3. クラッパム・コモンの乗馬練習場

自転車を入手した漱石と知人は、練習をするなら往来の少ないところが望ましいだろうということで「クラパム・コンモン」の「馬乗場」へ向かう。このコモン(共有地)へは、ラヴェンダー・ヒルから徒歩5分くらいで入ることができる。1910年頃に刊行された『Philips' Handy Volume Atlas of London』第6版を見てみると、コモンの南の方にHorse Rideがある。 二人はここへ行ったと考えて間違いないだろう。

コモンというものの用途は時代の要請に合わせて様々に変わると聞いている。例えば戦時には練兵場だとか、食糧生産のための農地などになったそうだ。馬乗場のあったはずの場所にも、現在は芝が生え、細い遊歩道のようなものが通っている。漱石はここで知人に押してもらいながら落車を繰り返し、通行人から笑われ、巡査に「ここは馬を乗る所で自転車に乗る所ではない」と注意されたのだろう。

隣の「人跡あまり繁しげからざる大道」の方は、車が頻繁に行き来する道路になっている。車道の交通量と歩行者のまばらさを考慮してのことだろう、自転車は歩道を通ってもOKという標識が立っている。

4. 女学生たちが歩いていた坂?

馬乗場では練習させてもらえないということになった漱石は、後日、知人に坂道へ連れ出される。「日記」にはこうある。

坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、路幅十間を超こえて人通多からず、左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり

「傾斜の角度二十度」との描写は、誇張もしくは勘違いと思われる。標高差の分かる地図で探してみた限り、そのような激坂はこのエリアには無さそうなのだ。ラヴェンダー・ヒルの北側が少し下がっているから、下宿から自転車を押して行くのに現実的な範囲としてはその辺りかも知れない。実際に歩いてみると、それっぽい下りが何か所かあった。

航空写真(手前が北)の、白いピンを立ててあるところが一枚目の写真の道、その二つ隣が二枚目の写真の道だ。「長さ二丁余」は220メートルくらいで概ね合っている。「十間」=約18メートルの幅員も、歩道も入れた全幅とすれば大きく外れてはいない(もちろん道が拡幅されていたり、反対に狭くなっている可能性もある)。いずれの道にも、次の記述が当てはまりそうである。

すでに坂を下りて平地にあり、けれども毫も留まる気色がない、しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳けて行く

これら二つの道のどちらが有力かというと(どちらも違っているかも知れない)、一つ目の写真の道ではないかと思う。そのすぐ近くにはShaftesbury Park Primary Schoolがあって(1877年に建設された学校らしい)、それが「日記」の「女学生が五十人ばかり行列を整えて向からやってくる」の箇所と符号するからだ。下宿からの距離も少しではあるが短い。

5. 鉄道馬車の通る道

坂道での練習を経て「ペダルは足を載せかつ踏みつけ」自転車を前進させるためのものと理解した漱石は、ある日、知人とその友人とに伴われ、クラッパム・コモンから「鉄道馬車の通う大通り」へ向かう。前掲の『Philips' Handy Volume Atlas of London』第6版だと、道に沿った赤い線が鉄道馬車のルートである。このことから、一行はコモンの南東の道に出ようとしていたと推定できる。園内のどこをどう通ったかは「日記」中の描写だけでは分からない。

駅馬車の道には現在、自転車レーンが青くペイントされている。ロンドンでもニューヨークと同様、物理的に分離されたタイプの自転車空間が既に主力となっているので、市街中心部から離れたここも数年以内に変わるかも知れない。漱石の留学していた頃、自動車の脅威はまだそこに存在しなかった。

6. 今回はここまで

以上が、漱石の「自転車日記」の舞台をざっと回ってみた記録だ。確かめられなかったことも多く残っている。まだ操舵のままならなかった彼が「ただ曲りやすい方へ曲ってしまう」ために「同じ所へ何返も出て来る」ことになった駅馬車通り付近の街路や、開き直って足を伸ばしてみたバタシー公園への道などは、時間があれば見ておきたかった。とはいえ、このエリアの雰囲気や地理・地形を大まかに掴むことができたので満足している。そこから等身大の「夏目くん」がちょっとだけ見えるようになった気がするのだ。

クラッパム周辺はロンドン中心部に比べてのんびりした感じなので、予定の空いた時にふらっと来てみるのも良いかも。




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