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贈与、交換、村上春樹

資本主義の根幹を支えている論理、それはあらゆるものは「交換」することが出来るという論理である。それは、あらゆるものを商品としてみなすことと同じである。つまり、「お金で買えないものはない」という価値観に立つことでもある。

一方、「贈与」とは何か。「しがらみ」である。人は何かを贈与されると、何か返さないといけないと無意識に思ってしまう生き物である。すなわち、「贈与」が行われる生活では「しがらみ」が生まれるのだ。資本主義がまだ未熟だった頃、例えば昭和初期の生活を想像してみて欲しい。きっと、野菜や果物等の食べ物は商品ではなくお隣さんからいただくものではなかっただろうか。

では現在の東京都港区に住む男性ひとり暮らしの人間にそのような「贈与」は存在するだろうか。そこにはあらゆる「贈与」がなく、商品化したモノに囲まれた世界があるだろう。商品化するとは、記号化することである。食べ物だけでなく、そこでは家事、安全、さらには愛までも記号化された世界が待っているかもしれない。

自由を求めるとは、もちろん、あらゆるしがらみから自分を解放してやることだ。しかしその代償として気づいた頃には、彼の周りには、記号化されたものしか存在しない。資本主義的な価値観はびこる現代社会から自由になろうと必死でもがいていたら、巡り巡って自分が資本主義を再生産し、強化していたのだ。

村上春樹は『風の歌を聞け』から始まる初期三部作で一貫して、社会から孤立し、自らの自由を追い求める自閉的な世界観を指向し描いてきた。しかしその行為は、自分が憎んでいたまさにその論理に、自分が加担してしまっているという結果を産むことになった。

村上春樹は苛立っている。彼が大きな暗闇に向かって投げたナイフは、気づいた時にはもう、彼の背中に深く刺さっていたのだ。

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