ほの暗い施設の廊下から
介護の入居施設を運営していると病院ほど多くはないが、施設で亡くなる方がいる。
救急搬送される方もいるが、朝お部屋に伺うと亡くなっていたということもある。
とても残念ではあるけれど、この仕事をする上で避けれては通れない事だと思っている。
僕は霊やお化けなどのオカルトの類を信じているわけではないが、それでも施設内で何かしらを感じることがある。
単なる気のせいなのか、はたまた亡くなった方の想いが存在しているのかは知る由もないが、普段とは”何かが違っている”という気配を感じ取ることが稀にある。
その日、当直だった僕はいつもと同じように夜中に施設内を巡視していた。
廊下の電気は消されて足元の非常灯を頼りに薄暗い中をゆっくりと進む。
静寂に包まれ、コツコツという自分の足音だけが耳に残る。
普段は見慣れているはずの館内が、暗闇のせいでいつもと別の姿に見える。
そのせいかは分からないが、普段とは違い背中に少し寒気を感じていた。
何もない誰もいないと思い込もうとしていたが、自分の感覚がそれを許さなかった。
「きっと気のせいだ」
誰に言うでもなくあえて声に出す。
強がっている自分が滑稽でおかしくなった。
なんとなく寒気が治まった気がして巡視を続けた。
ふと前方を見ると何かが…いや誰かが立っているように見えた。
薄明りのせいではっきりとは分からなかったが人のように見える。
あえて視界を一回外して、また前方を確認するが、やはり誰かが立っている。
背中に冷たい汗が流れた。鼓動が早くなるのが分かる。
だんだんと暗闇に目が慣れていき、”その人”の輪郭が見えてきた。
入居者の1人だった。
男性の入居者がこちらを見て笑いながら立っていた。
その入居者は重度の認知症の方だった。
ご飯を食べたり歩いたりすることはご自身で出来るが、短期記憶障害がありついさっきの出来事もすぐに忘れてしまう方だった。
日頃から館内をあてもなく歩かれており、夜間帯に徘徊されるのも珍しいことではなかった。
見知った顔にホッと一安心したが、その入居者に違和感を覚えた。
にこにこ笑っている顔はいつも通りだが、何かがおかしい。
その方を凝視して、僕は驚いた。
その方は顔はこちらを向いているのに、首から下は後ろ向きだったのだ。
つまり頭だけがぐるんとこちら側を向いている状態だ。人体の構造では絶対にあり得ない状態だった。
「ヒッ…」声を上げそうになったのを必死で堪えた。
その入居者は僕に気が付くと、「こんにちは!」と大きな声を出して首から下が後ろ向きのまま近づいてきた。
その異様な姿は三流ホラー映画のようだったが、実際に目の当たりにすると恐怖以外何物でもなかった。
「うわああああああ!!!」
僕は堪えきれず叫び声を上げた。
「どうしましたか?」
僕の叫び声を聞いた入居者は歩くスピードをさらに上げてどんどんと近づいてくる。
その顔は心配そうな表情してたが、体の向きは変わっていない。
一体何がどうなってそうなってしまったのか皆目見当もつかなかったが、このままだとまずいことだけは分かった。
僕はいち早くこの場を立ち去りたかったが、足がすくんで動かない。
入居者はついに僕の正面までやってきた。
「大丈夫ですか?」
そう言って入居者が手を僕の方に差し出す。
このまま闇の世界へ誘われる!やばい!体よ動いてくれ!
体の震えを無理やり抑え込み逃げようとしたその瞬間、僕は入居者の様相がおかしいことに気が付いた。
首から下が後ろ向きに見えたその姿は、なんてことないただ洋服とズボンを逆に着ていただけだった。
「なあんだ…」
僕はホッとしてその場にへたり込んだ。
「大丈夫ですか?」
入居者が僕の顔を覗き込む。
「一緒に部屋に戻りましょうか」
入居者と一緒に暗い廊下を歩きながら部屋に戻った。
部屋で洋服を着替えてもらいベッドに寝かせる。
「おやすみなさい」
そう言ってそっと部屋から出て行く。
思いがけず入居者の前で醜態をさらしてしまったが、その入居者はきっと今日のことはすぐに忘れてしまうだろう。
普段は施設での思い出を忘れてしまうことに寂しさを覚えていたが、今回ばかりは僕の醜態を綺麗に忘れてくれるのは本当にありがたかった。
今日のことをスタッフ達が知ったら何を言われるか分からない。
今夜の出来事は僕だけの秘密にしよう。
そう思っていた。
明くる日、その入居者は昨夜の一部始終をみんなに話されていた。
「私を見るなり男の方が叫び声を上げて腰を抜かすもんだから、本当に驚きましたよ」
流暢に語るその方に対して「いや腰は抜かしていませんよ!」と抗う僕だったが、「じゃあ叫び声はあげたんですね」とニヤニヤと笑うスタッフ達からそう揶揄されたのだった。
物事をすぐに忘れてしまうはずなのに、僕の醜態だけはハッキリと覚えており、語り部のように話す入居者に、認知症はまだまだこちらの浅はかな知識だけでは計り知れないなと認知症の底知れぬポテンシャルに恐怖した僕だった。
おしまい
(本文:2000字)
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