s021/生きたい自転と終わりにしたい公転
あと少ししたら、自分の働いたお金で買い物ができるように準備したい。
いちいち親に頼んだりするの、めんどくさいから。自立したい。
そのために必要な手続き、自分でできるように少しずつやってみたい。
将来、一人暮らし?できるかなぁ。
でもヘルパーさん頼めば、何とかなるのかも。
友だちでそうやって生活しているの、聞いたことがあって、自分には難しいんじゃないかと思ってたけど。
そんな、希望に満ちた「生きたい」話を聞いているときは、聞いてるわたしも楽しいし、安心していられる。
でも、同じ人が次の瞬間、全てを「終わりにしたい」、それを今すぐ実行に移そう、という衝動に突き動かされてしまうこともある。
そのきっかけは、わたしたちにとっては「些細」と感じるような出来事や、言葉のやり取り。
接する機会が多い分、とげとげの言葉をそうとは知らずにわたしが投げてしまうこともあるし、時限爆弾的に、後からとげになってしまうこともある。
そういうときの責任は自分でとらなきゃいけない。
「そんなことで?」というのは禁句はもちろん、愚問。
彼らにとってはすべてのできごとや言葉に秋の野原のくっつき虫のようなトゲがついていて、繊細でふわふわのやわらかい心には引っかかるのだ。
わたしのような大雑把なもんとは出来が違うのだ。
だけどやっぱり、わたしも人間だから。
晩ごはんの準備をしながら自分の子どもたちとふざけておしゃべりをしている時に、突如連絡を受けて「終わりにしたい」モードをぶっこまれると、同じ体に真逆の感情が渦巻いてパニックに近い感覚になる。
正直しんどい。
感情が崩壊して、フライパンを振りながら涙が止まらない、ということも起こる。もちろん、ごはんは喉を通らない。
だけどこれはもしかして、彼らの「生きたい」と「終わりにしたい」が同居している状態を疑似体験してる、とも言えるのかもしれない。
体験してみないとわからない、その辛さのほんの一部を、味わったのかも。
わたしはほとんどテレビを見ないけど、芸能人が自死を選んだニュースにくっついて、その方の生前やろうとしていたこと、前向きに頑張っていたことが報道される。
「こんなに順調だったのに、楽しみにしていたのになぜ?」ってコメンテータは話す。
最近、少しわかったことがある。
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