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『0.5ミリの恋』 第3話「心の重力」

「これは...まずいわね」

志穂子は、私のスマートフォンの画面を見つめながら、珍しく眉をひそめていた。

アフタヌーンティーから一週間。村上さんとの関係は、ある種の停滞期に入っていた。

LINEでのやり取りは続いている。建築の話、仕事の話、時々は映画や音楽の話も。でも、何かが違う。

「なぜだと思う?」叔母が静かに尋ねた。

「えっと...」私は画面を見返す。「同じような話の繰り返しになってる?」

「そうね。でも、それは結果であって原因じゃない」

「どういうこと?」

「ほら」志穂子がトーク履歴を指さす。「彼が『建物の記憶について、もう少しお話ししたいことが...』って言ったとき。あなた、どう返したの?」

「『ぜひお聞きしたいです』って」

「そう。で、彼は『また機会があれば』と返して、そのまま...」

「途切れちゃった」

「これ」叔母が意味深に言う。「お互いが『相手の出方』を待ってるのよ」

私は黙って考え込んだ。確かに、この一週間。私も村上さんも、なんとなく遠慮がちになっている。

「でもそれって」私は少し反論したくなって言った。「慎重になるのは、自然なことじゃ...」

その時、スマートフォンが震えた。

村上さんからの新しいメッセージ。

『藤原さん、突然なんですが、 明日、○○ビルの解体が始まります。 最後の姿を見に行こうと思っているのですが、もしよろしければ...』

私は思わず息を呑んだ。○○ビル。それは、私が最初に村上さんに興味を持つきっかけとなった、あのカフェが入っているビルだった。

「へぇ」志穂子が目を輝かせる。「運命的なタイミングね」

「どういうこと?」

「考えてみて」叔母がワイングラスを手に取りながら言う。「あなたたちの出会いの場所が、まさに『記憶』になろうとしている。そこには深い意味があるわ」

確かに。カフェでの何気ない出会い、マロニエビルでの夕暮れ、そしてホテルでのピアノ。私たちの関係は、いつも建物という「記憶の容れ物」と共にあった。

「でも」私は少し躊躇った。「明日って、月曜日...」

「仕事?」

「うん。大切な会議があって...」

「なおさらよ」志穂子が真剣な表情になる。「今こそ『重力』の正体を知るとき」

「重力?」

「そう。人を引き寄せ合う力。でも、強すぎても弱すぎてもダメ。ちょうどいい『引力』があって、初めて軌道が生まれる」

私は黙って考え込んだ。会議は確かに大切。でも、この機会を逃したら...。

「焦らなくていいのよ」叔母が優しく言う。「まずは、素直な気持ちを伝えてみて」

深く息を吸って、私は返信を始めた。

『解体、そうだったんですね...。 実は、私にとってもとても思い出深い場所です。 明日は大切な会議があるのですが、もし夕方以降でしたら...』

送信する前に、一度見直す。

「これでいい?」

「ええ」志穂子が頷く。「『思い出深い』という言葉を使ったのが、特に良いわ。二人の記憶を、さりげなく重ねている」

送信。

すぐに既読がついた。でも返信はすぐには来ない。その「間」が、いつもより少し長く感じられた。

5分後、返信が来た。

『実は、解体工事は早朝から始まるのですが... 夕方まで、建物の様子を見守っていようと思っています。 もし藤原さんの会議が終わりましたら、ご連絡いただけませんか? 最後の夕暮れを、一緒に』

「おやおや」志穂子が意味深に微笑む。「彼なりの『重力』ね」

「どういうこと?」

「彼は一日中そこにいるって言ってるのよ。でも、それはプレッシャーにならない言い方で」

確かに。「待っています」とは言わず、「見守っていようと思います」という表現。押しつけがましさは全くないのに、確かな想いが伝わってくる。

「返信は?」

「うーん」私は考え込んだ。「『ありがとうございます。会議が終わりましたら、必ず』...かな」

「待って」叔母が制した。「『必ず』は重すぎるわ。その代わり...」

私はハッとして、書き直した。

『ありがとうございます。 夕暮れの時間に、間に合うように...』

「そう」志穂子が満足げに頷く。「『マジックアワー』を意識した言葉選び、素敵よ」

送信すると、今度はすぐに返信が来た。

『マジックアワーに、お会いできることを』

シンプルな一文。でも、その中に込められた期待が、静かに胸に響いた。

「明日、気をつけることは?」叔母が最後のアドバイスをくれる。

「うーん...」

「二つよ」志穂子は指を立てた。「一つは、会議中に気持ちが逸れないこと。もう一つは...」

「もう一つ?」

「明日の夕暮れまで、メッセージのやり取りはしない方がいい」

「えっ、どうして?」

「『待つ』時間を大切にするためよ」叔母は意味深に言った。「彼は建物の最期を見守りながら、あなたを待つ。あなたは会議をこなしながら、夕暮れを待つ。その『重力』が、二人の距離をより確かなものにしてくれる」

私は黙って頷いた。

翌日。

会議室の窓から、時折外を見やってしまう。空は快晴。絶好の解体日和、なんて皮肉な表現が頭をよぎった。

「藤原さん、資料の3ページ目を...」

「はい!」

必死で集中する。でも、村上さんが今どんな表情で建物を見守っているのか、考えずにはいられなかった。

16時45分。ようやく会議が終わった。

急いで荷物をまとめながら、スマートフォンを見る。メッセージは来ていない。でも、それが逆に安心感を与えてくれた。二人とも、約束を守っている。

タクシーに飛び乗る。運転手に行き先を告げながら、ふと思った。これは、単なる建物との別れ以上の何かかもしれない。

現場に着いたのは17時15分。

辺りはすでに、夕暮れの色に染まり始めていた。歩道には、古いビルを見上げる人々が何人か。その中に、見覚えのあるシルエット。

「村上さん...」

彼が振り返った。その表情に、疲れと安堵が混じっているのが分かった。

「藤原さん」彼は柔らかく微笑んだ。「来てくれて、ありがとう」

その時、私は気付いた。彼の手に握られているものが、カメラではなく、スケッチブックだということに。

「一日中」村上さんは少し照れたように言った。「このビルのスケッチを描いていました」

ページをめくると、そこには鉛筆で描かれた建物の姿。朝の光、昼下がりの影、そして今、目の前にある夕暮れの表情まで。

「これ...」私は思わず息を呑んだ。「私たちが最初に会ったカフェの窓も...」

「はい」村上さんが静かに頷いた。「あの日の光も、描き留めておきたくて」

スケッチブックの片隅には、小さな人物のシルエット。窓際の席で、コーヒーを飲む女性の後ろ姿。

私は目を逸らさずにはいられなかった。それは間違いなく、あの日の私。でも、直接は何も言えない。言葉にしてしまうと、この繊細な瞬間が壊れてしまいそうで。

「藤原さん」彼が真剣な表情で言った。「建築家として、いつも建物の『記憶』を大切にしたいと思ってきました。でも最近、気付いたんです」

「何に...?」

「建物の記憶は、そこにいる人々の記憶でもある。だから...」

その時、工事現場から大きな音が響いた。解体工事の最終確認が始まったのだ。

「ここで見ていて大丈夫ですか?」私は思わず彼の横顔を見た。

「ええ」村上さんは穏やかに微笑んだ。「むしろ、見届けなければと思って」

空が少しずつ茜色に染まっていく。建物の輪郭が、夕陽に照らされてくっきりと浮かび上がる。

「実は」彼がポケットから一枚の紙を取り出した。「この建物の設計図も、見つけたんです」

古い青写真には、今では失われた細部の意匠が克明に記されている。

「ここに描かれている装飾」村上さんが図面の一部を指さした。「実は、新しい建物でも一部復元することになったんです」

「え?」

「はい。これから建つビルは、確かに現代的な高層ビルになる。でも、このファサードの一部と、エントランスホールの意匠は、オマージュとして受け継がれていく」

その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。

失われるものと、残されるもの。変わっていくものと、受け継がれるもの。その狭間で、私たちは今、同じ光に包まれている。

「あの」私は思い切って言った。「スケッチ、もう一枚描いてみませんか?」

「え?」

「今、この瞬間の。だって、この光は二度と...」

言葉を最後まで言う前に、村上さんはスケッチブックを広げていた。

「藤原さん」彼は少し考えるように言った。「良かったら、一緒に描きませんか?」

「え、でも私...」

「大丈夫です」彼が柔らかく微笑む。「このスケッチブックには2Bの鉛筆で描いてるんですけど、ポケットにHBも持ってるんです。違う硬度の鉛筆で描く線が重なると、思いがけない表情が生まれたりして...」

その言葉の中に、何か大切なメッセージが込められているような気がした。

二人で並んで腰を下ろす。夕陽に照らされた建物を見上げながら、私は恐る恐る鉛筆を走らせた。

「最初は輪郭から」村上さんが優しく指導する。「でも、細部にはこだわりすぎないように。大切なのは、今のこの瞬間に感じた印象を...」

拙い線が、少しずつ形になっていく。彼の2Bの濃い線と、私のHBの薄い線が、一つのページの中で出会い、重なり合う。

「不思議ですね」村上さんが静かに言った。「二つの線が交わると、どちらか一方では表現できなかった陰影が生まれる」

その言葉に、私は思わずドキリとした。これは単なるスケッチの話ではない気がする。

「村上さん...」

でも、その先の言葉は出てこなかった。今は、この「間」を大切にしたかった。

夕暮れが深まり、建物の影が長く伸びていく。私たちは無言で、それぞれの線を重ねていった。

やがて、一枚のスケッチが完成した。

それは決して上手なものではない。でも、二人の「まなざし」が確かに刻まれている。

「これ...」村上さんがページを破ろうとする。

「あ、このままで」私は思わず止めた。「スケッチブックの中に、このまま残しておきませんか?」

村上さんは少し驚いたような、でも嬉しそうな表情を見せた。

「スケッチブックの中に...ですか」

「はい。だって...」私は言葉を探した。「この一日の記録の、最後のページとして」

彼はゆっくりと頷いた。そして、スケッチブックを閉じる前に、右下に小さく日付を書き入れた。

暮れゆく空の下、工事現場では作業員たちが最終確認を終えようとしていた。明日の朝には、この景色は永遠に失われる。

「藤原さん」

「はい?」

「明日から、ここで新しい建物が生まれていきます」村上さんが静かに言った。「その過程も、良かったら一緒に...」

その時、私のスマートフォンが鳴った。志穂子からだ。

「ごめんなさい、ちょっと...」

電話に出ると、叔母の声が優しく響いた。

「どう?建物との別れは」

「うん...」私は少し声を潜めて答えた。「でも不思議と、寂しくはないの」

「それは、きっと...」志穂子の声が意味深長になる。「新しい『重力』が生まれているからじゃない?」

その言葉に、私は思わず村上さんの方を見た。彼はまだ建物を見上げている。その横顔が、夕暮れに柔らかく溶け込んでいた。

「今度は、あなたから誘ってみたら?」叔母が提案した。「明日とかじゃなくていいの。でも、『次』があるということを...」

電話を切って、私は深く息を吸った。

「村上さん」

「はい?」

「来週末、マロニエビルの非常階段で、また...」

言葉にした瞬間、自分の大胆さに驚いた。でも、後悔はなかった。

彼の目が、優しく輝いた。

「ぜひ」村上さんの声が、いつもより少し低く響いた。「来週の土曜日、16時でも...」

「はい」

その短い言葉のやり取りの後、私たちは再び静かに夕暮れを見つめた。

建物の最後の姿が、オレンジ色の光の中でゆっくりと影を濃くしていく。それは寂しい光景のはずなのに、どこか希望に満ちているように感じられた。

後日、志穂子に会った時のこと。

「『重力』って、面白いものよね」叔母はワインを傾けながら言った。「最初は意識して『距離』を取っていたのに、気付けば自然と引き寄せられている」

「そうなの?」

「ええ」志穂子は意味深に微笑んだ。「例えば、あなたから誘うなんて、一ヶ月前には考えられなかったでしょ?」

確かに。最初は「偶然」を装い、それから慎重に「間」を測り、そして...。

「でもね」叔母が続けた。「恋愛の本当の醍醐味は、その先にあるの」

「その先?」

「そう。『演出』や『駆け引き』を超えた場所。でも、そこに行くために、私たちは色んな作法を学ぶ。それは決して無駄じゃない」

私はふと、スケッチブックのことを思い出していた。違う硬度の鉛筆が、一つの絵を描く。それは、まるで...。

「二人の距離感みたいね」志穂子が私の考えを読んだように言った。「これからは、『HBとの距離』じゃなくて、『HBと2Bの調和』を探していく段階。そこに、きっと素敵な物語が...」

その時、スマートフォンが震えた。

村上さんからのメッセージ。

『藤原さん、今日、工事現場の仮囲いに気付いたことがあって...
実は、新しいビルの1階に入るレストラン、その設計についてご相談したいことが』

私は思わず画面を見つめ直した。

「へぇ」志穂子が意味深に微笑む。「『相談したい』って...」

「どういうこと?」

「彼なりの誘い方ね」叔母はワイングラスを傾けながら言った。「建築家として、一緒に何かを作りたいって。それは...」

その言葉の意味を理解するのに、それほど時間はかからなかった。

これは単なる相談以上の何か。新しい関係の始まりを示唆する、彼からのメッセージ。

「返信は?」

「うーん」私は少し考えて、指を動かした。

『ぜひ。私にできることがあれば...
それと、その場所からも、夕暮れは綺麗に見えるでしょうか?』

送信して数分後、返信が来た。

『もちろんです。
実は、マロニエビルと同じ角度で...』

私は思わず微笑んだ。この先には、きっと新しい物語が待っている。

それは、演出や駆け引きを超えた、本当の二人の物語—。


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