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『0.5ミリの恋』 エピローグ「光の方程式」

「これは、私からの卒業式ね」

志穂子は、いつものカフェではなく、新しくできたレストランで私と向き合っていた。窓の外には、先月完成したばかりのビルが見える。

以前のカフェがあった場所に建った新しいビル。設計は、もちろん村上さんのチームが手がけた。

「卒業式?」

「ええ」叔母は優しく微笑んだ。「もう、私からのアドバイスは必要ないでしょ?」

そう言えば、最近は村上さんとのやり取りについて、志穂子に相談することが減っていた。それは、関係が疎遠になったからではない。むしろ...。

「自然体になってきたのよ」叔母が言い当てるように言った。「演出も、駆け引きも、全部『地図』だったの。でも今のあなたには、もう地図は必要ない」

確かに。この3ヶ月の間に、私たちの関係は不思議な深まりを見せていた。

最初は意識的だった「間」が、いつしか自然な呼吸になっていた。LINEの返信も、待ち合わせの時間も、全てが心地よいリズムを刻むようになっていた。

「それに」志穂子がレストランの内装を見回しながら言う。「彼との『共作』も素敵よ」

私は思わず頬が熱くなるのを感じた。このレストランの内装デザイン、村上さんと一緒に考えたのだ。

建築の専門知識はない私だけど、「光の集まる場所」という視点から、いくつかのアイデアを提案した。窓の配置、テーブルの向き、照明の角度...。

そして今、その光は私たちを静かに包み込んでいる。

「最初のレイアウト案を見せてもらった時」志穂子が意味深に言った。「すぐに分かったわ」

「何が?」

「このレストラン、マロニエビルの非常階段から見える夕陽の角度と同じなのよ」

私は息を呑んだ。気付いていなかった。でも、確かにその通りだ。同じ方角、同じ角度で、夕陽がテーブルを照らすように設計されている。

「村上さんが、さりげなく組み込んでくれたのね」

「うん」私は少し照れながら答えた。「でも、気付いた時には言わないでって...」

「素敵な『重力』ね」叔母が満足げに言う。「建築家の『まなざし』と、あなたの『まなざし』が、こうして形になった」

その時、私のスマートフォンが震えた。

『打ち合わせ、終わりました。 今日は、このレストランで...』

メッセージの最後に、小さな太陽のマークが付いている。

「さあ」志穂子が立ち上がった。「私そろそろ行くわ。これからは、二人の『光の方程式』を見つけていってね」

「光の方程式?」

「ええ」叔母は優しく微笑んだ。「人と人との関係も、光と同じ。反射したり、屈折したり、時には干渉し合ったり。でも、その全てが美しい」

志穂子が去った後、私は窓際に立った。通りを行き交う人々、古い建物と新しい建物、そしてその間を縫うように差し込む陽の光。

スマートフォンを開いて、返信を書く。

『今日は、16時でも...? 夕陽が、一番綺麗な時間に』

送信して、しばらくすると既読がついた。でも、返信はすぐには来ない。その「間」が、もう怖くなかった。

むしろ、この静かな時間が愛おしく感じられた。

しばらくして、村上さんからの返信が来た。

『16時、素敵な時間ですね。 実は、新しい設計案について、ご相談したいことがあって...』

私は思わず微笑んだ。彼の「建築の話」は、いつしか「私たちの物語」になっていた。

窓の外では、古い建物の窓ガラスに陽が反射して、思いがけない光の模様を描いている。それは、最初に出会った日のカフェで見た光と、どこか似ている。

「光の方程式か...」

私は小さく呟いた。確かに、人との出会いも光のよう。時には意図的に「反射」させ、時には自然に「屈折」し、そして時には...予想もしない場所で「交差」する。

スマートフォンに、もう一度メッセージが届く。

『あ、それと... スケッチブック、持っていきます』

その言葉に、胸が温かくなった。あの日の二人で描いた絵以来、私たちはときどき一緒にスケッチを描くようになった。HBと2Bの線が重なり合って、新しい風景を生み出していく。

返信を打つ前に、ふと初めて志穂子に相談した日のことを思い出した。あの頃の「偶然」は、実は必然だったのかもしれない。

『楽しみにしています。 今日は、どんな光が見られるかな』

送信ボタンを押して、私は深くため息をついた。

もう「駆け引き」は必要ない。 必要なのは、ただ...。

「素直な『まなざし』」

ささやくように言葉が零れた時、窓の外で夏の雲が流れ、光が優しく部屋を満たしていった。

(完)

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