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32 幽霊

最近読んでいる本。

古くは『竹取物語』から、直近で安部公房、北杜夫などまで、日本文学史上で幽霊がどのように描かれてきたか、その系譜を辿る。
1972年に発行された。
沖縄が返還され、田中角栄内閣が発足し、札幌オリンピックが開催された、華やかな年だ。

固い人文学系の本かと思いきやパンチの強い著者の言葉で始まる。

 かくして私は、生きながら死んだ姉に一人の人間の含む、美と醜の極限を見た。だが、何が醜で、何が美なのかを簡単にいいわけることが、はたしてできるものだろうか。美の中にある醜こそ真実であり、醜の中の美こそ真実の美なのではあるまいか。
 姉は死にながら安らかに死んでゆくことを願い、一方で、死にながらなおこの世に生き残って、まだ幼すぎる子供たちのためにつくしたいと願った。言葉も既に十分でなく、目は朦朧として、死と生の二つながらの世界をながめているようであった。そこに私は、一人の幽霊の姿を見た。

『日本の幽霊たち<怨念の系譜>』

この文章の前で、上記の姉が衰弱し容姿が崩れていく様を容赦なく書き記している。
1931年生まれの著者は少年時代を戦中に過ごし、思春期で戦後手のひらをひっくり返す大人たちを見、青年期に高度経済成長を迎えた。
「見たくないものをたくさん見た」と語っている通り、まさに日本激動の時代を生きたといってよいと思う。

文中、幽霊が登場するのは、世が平和なタイミングであると記している。(大意)
地獄よりも現世の方が居心地が良いから幽霊が居座る、ということらしい。
著者にとっては現世は地獄よりもマシか、否か。
姉の死も経、そういった考えから本書の着想を得たのではと勝手に想像している。

『呪術廻戦』が面白い。
あれは呪霊なので幽霊とは異なるが、登場する条件や降りかかる厄災など共通点というか互いに想起させる面があり、個人的にそうしたつながりも楽しんでいる。
大規模な殺戮や災害が常態化はしていないという点で今の日本は比較的平和だと言えると思う。
比較的平和だからこそ、他界した人に思いを馳せ、慈しみ、恐れる余裕があるとも考えられる。
呪霊が大暴れする余地がある。

ウクライナやガザ地区の惨状を目の当たりにしている。
組織的なものか、個人的なものかその常軌を逸した猟奇性は現代の文明国で起こっていると信じたくないレベルだ。
現地で爆撃から隠れ敵兵から逃げる彼らは呪いを感じ、幽霊を恐れる余裕があるだろうか。
地獄よりも地獄なのではないか。
わからない。


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