カナダ逃亡記#1:カナダに逃亡をすると決めた話
はじめに
これからここに載せる文章は、私が今から11年程前に体験したカナダへの国外逃亡の話です。2010年2月から2013年10月までカナダに住み、2014年の7月からワードプレスのブログに連載していました。そのブログはもう封印しているのですが、先日久しぶりに会った友人からそのブログの話をふられ、他人が読んで面白いものならまた出してみよう、という気になりNOTEに再掲することにしました。
10年過ぎればもうすっかり過去の話ですが、あの時の国外逃亡はその後の私の人生の指針、価値観に大きく影響を与えました。過ぎてみれば全て笑い話、ただあの時は「けっこう必死」。そんな姿を臨場感をもって数回にわたって書いていきます。
これから海外に住もうという方、人生に行き詰ってなにか気晴らしになるものを読みたいという方に楽しんでもらえれば幸いです。
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国外逃亡をすることになった
2010年2月、僕は妻と3人の子供らと共にカナダに行くことになった。国外逃亡だ。
国外逃亡、ああ、なんて不穏で卑怯な響きなんだ。今でこそ国外逃亡なんて笑いながら言えるけど、当時は自分たちが国外逃亡するなんてことは誰にも言えなかった。親兄弟にも言えなかった。もっと崇高な理由のために一時的に日本をはなれる、みたいな感じが望ましいと思っていたのか。いずれにしても、国外逃亡というのはヤクザか金融系で大金せしめた悪党がフィリピンやタイに逃げてしまうような、そんなイメージだ。
摂食障害を患っていた妻
僕の妻は長い事、摂食障害を患っていた。摂食障害は、厚生労働省の難治性疾患(難病)にも指定されている、れっきとした精神疾患だ。そして、摂食障害は窃盗癖(クレプトマニア)を合併させることがあるが、僕の妻もそのひとりだった。
2006年ごろから妻は断続的に刑事事件の加害者となり、刑事告訴された。その後、精神科医の診療を受け、グループセラピーなどに通い、窃盗等の衝動をコントロールできるようにはなった。医者からは「特定できない境界性パーソナリティー障害」と診断された。
しかし、裁判では精神疾患は認められず、有罪→実刑となった。
実刑になるとは妻の場合、刑務所に入ることであった。
精神疾患でも、小さい子供が家庭にいても、関係がない。日本においては窃盗癖は「ぬすっと」であり、初審でしっかりと事実関係を証明できなければ9割以上の確率で有罪になる。
ただ一応、刑法39条では精神疾患/精神耗弱者は罪が軽減されることになっている。
しかしこの事は、当時の僕には不可解なことだった。なぜ初審で決まった事は控訴で覆されることがないのか。裁判のどの段階ででも、正義があるのなら、窃盗癖は精神疾患と認められるべきだ。そして無罪放免にすべきだ。
日本の刑事裁判は殆どのケースが有罪になる。検察はそのために、裁判の前段階で念入りに検察に有利な長所を「作文」し、それから告訴する。有罪にならないケースは、はなから告訴しない。
かくして「精神疾患だった」ということは考慮されず、妻のもとへ「最高裁への上告が棄却された」旨の通知が届いた。刑務所にいついつ出頭する旨も書かれていた。
妻から国外逃亡の意思を伝えられる
妻は国外に逃亡することを僕に告げた。僕は当然反対した。
「行きたければどうぞ。子供は母親といた方が良いというのは、僕もそう思うので、連れて行けばよい」
と、かまをかけた。
しかしその直後に妻が見せた行動は、大きな岩をも剣でつらぬくような、まっすぐな堅い意志の現れだった。
妻は過激なことを言うことはあったけれど、決して利己的な人間ではない。真に「子供たちのため」に国外逃亡の道を選び、その計画を実行に移そうとしていた。3番目の子は1歳そこそこで、まだ母乳を飲んでいた。もし子供がいなかったら、おそらく逃亡もしていなかっただろう。
同時に、いっしょに来て欲しいという、僕に対する妻の気持ちは、痛いほど伝わってきた。
そして僕はこう思う:
「自分がこの人だと決めた結婚相手が、自分の助けを求めている。これを助けてやらないなら、そもそも一緒にいる意味もないな。」
僕は持ち前の好奇心を発動させ、まあ死ぬことはないだろうと楽観につとめた。刑法をネット上で熟読し、自分たちが海外に行った場合に起こりうる状況も理解した。
さらに僕は裁判の判決にも大いに不服だったので、いろいろ理由を作って国外逃亡を正当化し、家族と一緒に日本を去ることを自分にしむけた。7年務めた会社に退職願を出し、多くの人に「人には話せない」門出を祝ってもらった。
付きまとう不安
しかしそうはいっても相当な不安はつきまとった。アメリカに行こうとは決めていたが、仕事も家もない。ビザもない。しかも日本の「検察」から逃げる事になる。子供を連れて。
すごく当たるという霊能者に未来をみてもらったら「アメリカに行ったら警察に拳銃で撃たれてる姿が見える」とまで言われた。一体何をたよりにすればいいのだろう。
その後、アメリカと日本は犯罪者を引き渡せる協定があることを知ることになる。たまたまその頃、NHKの番組で世界の街を旅をする番組をやっていてトロントの街を映していた。なんだか住みやすそうだな、ということでトロント行きを決める。最終目的地のニューヨークに一番近いトロントへ。
いざカナダ・トロントへ
「立つ鳥は後を濁さない」、
それほどの自覚があったわけではないが、出発の前日、当時住んでいたマンションはその後の売却も考えて綺麗に掃除した。共同のゴミ捨て場がものすごいことになってしまって、後に海外から管理会社にペナルティを支払うことにもなった。
そして妻が刑務所に出頭する日の朝、僕らは機上の人だった。
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あの時のことは今思い出しても、心細さがよみがえる。
逃亡前夜、最後の瞬間まで付き合ってくれた妻の友達から「なぜ急にカナダに行く事になったのか?」と聞かれ、僕は答えにつまった挙げ句、こう答えた。
「そこに信じるものがあるから」
信じるものとは家族の絆、とにかく行こう、それだけをたよりに。
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