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カナダ逃亡記#10:失意からの復活

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ドライブ・イン・ディスペア 失意の復路

オタワからトロントへ帰る運転は、今まで経験した運転の中でもワースト1になるほどの、つらく悲しくつまらないものだった。
本来なら、予定でいうなら、今頃みんなウキウキの笑顔で、みんなで歌なんかうたいながら、僕は運転しているはずだった。

今の僕には妻にかける言葉が見当たらない。前向きな言葉をかけてみても、渚に指で書いた文字のように、次の瞬間には「現実」という名の冷たい波に洗われ消えてしまう。
復路は往路と同じようにはてしなく長い直線がつづく高速道路であった。しかし気がたっているせいか、睡魔に襲われることはなかった。

色々な思いが頭をよぎる。

もし妻の事がなかったら、少なくとも僕はアメリカに行けただろう。そうすれば働くこともできただろう。
働いて家族の生活費を稼ぐことは、「僕の重大な責任」のひとつだ。
妻をカナダにおいて、僕がアメリカに出稼ぎに行くことも考えたが、それは一家離散になってしまうと思い、すぐに却下した。

妻のパスポートが無効と判った今、もはや僕らはカナダ国外には出られない。唯一出る方法としては、日本領事館に問い合わせてパスポートを新たに発行してもらうこと。これはつまり僕らの身元を明らかにして、おそらくは日本の空港に強制送還で、「妻が当局に身柄を拘束」されることを意味している。

そんなことはできない。これまでに払った代償は大きかった。
仕事はやめて、住んでいた家も手放して、「絶対に」時効を成立させるために日本を出てきた。家族が離ればなれにならないために、結構な無理をしてきた。

途中、サービスエリアのマクドナルドに立ちよった。子供に「バリューセット」を買ってあげた。オレンジ色のプラスチック製のカボチャの入れ物が出てきて、子供たちにとっての楽しいハロウィンが翌日であることを思い出す。店にいた他の客が、僕に話しかけてきた。
「彼女は大丈夫?相当具合が悪そうだけど、病院に連れて行ったほうがいいんじゃないの?」と妻の方を向いた。僕は妻の「失望の底」のような表情をみて、“She is ok…”と曖昧に返事をした。

一体この先、どうすればいいのだろう。
カナダのビザ(観光ビザ)は残り一ヶ月ほどある。しかしもう更新はできないだろう。ぼくらにはもう、道は何も残されていないのか?
今住んでいる家も、契約を延長していないので、一週間後には出なくてはならなかった。

帯状疱疹がでた!

今までで最大級のストレスが僕にふりかかってきた。
背中にダニに噛まれたような痒みが出てきて、それを一生懸命搔いているうちに、その噛まれた跡は段々と大きくなり痛くなってきた。
調べてみたらそれが「帯状疱疹」だとわかった。帯状疱疹なんてそれまでに聞いたこともなかった。

仕事がなく、ステータス(滞在の許可)もなく、住む家もなくなろうとしていた。言うまでもなく、金はもう残っていなかった。

そんな時、ふとあることを思い出した。
数ヶ月前にコーヒー屋で拾った、ある新聞記事のことだ。

一筋の希望の光

それは、トロントにいたある韓国人女性についての新聞記事だった。

彼女は父親の虐待から逃れる為に、カナダに「難民として」申請している人物だった。それをカナダ政府の役人が、彼女のSEXと引き換えに永住権をとらせてあげよう、という「詐欺と性搾取」の事件であった。

これを読んだ時に、「へえ、父親の虐待から逃れるために難民申請ができるんだ」と驚いたものだ。難民申請などは、戦争や大飢饉などの被害を被る一般市民がするものだと思っていた。家庭内の虐待は、当事者にとっては大変な問題ではあるが、それは個人的なものとみなされるかと思っていた。

しかしカナダは違う。家庭内暴力でも戦争・災害の被害者でも、正当な事情(と本人が思うだけでも)があれば、だれでも難民申請することができる。ただ、申請したからといってそれが必ず通るわけではない。

その記事を読んだ時はネットで難民申請のことを簡単に調べただけだった。我が家のようなケース、つまり「日本からの難民申請のケース」も調べてみたが、情報は皆無だった。
しかし、これはいつか使えるかも知れないと思い、
もしも全てだめだった場合の最後の切り札にしておこうと、頭の奥の引き出しにしまっておいた。

そして、そのしまっていたものを引っ張り出す時がきた。

Refugee Claim(難民申請)

申請の方法を調べたところ、カナダでのビザ(観光ビザ)が残っているうちに書類を提出しなくてはならないことがわかった。
2010年の12月一杯で切れてしまう。残りあと1ヶ月程だった。

まずネット上からアプリケーションをダウンロードして、英語か仏語で「なぜあなたは難民申請をするのか」についての作文を書き込み、それを最寄りのC.I.C.(カナダ移民局)に持って行く。そこで審査官が「この人たちは難民申請をする条件をみたしている」と判断したら、今度はI.R.B(移民難民委員会)にそのファイルが移される。
このI.R.B.はカナダ移民局からは完全に独立した組織で、申請者の出身国がどこであろうと政府の都合には左右されず、常に人道的な立場にいる。

申請は僕が行い、「我々が難民申請に適正」とした理由は次の通りにした。
1) 妻は摂食障害を患っており、クレプトマニア(窃盗癖)で刑事事件をお越し、その犯罪行為は病気に起因するものであった
2) クレプトマニアは治療可能な病気である
3) もし子供たちが母親から離されるようなことがあればそれは心理的な虐待にあたり、将来的に同じような「悲しみの連鎖」を引き起こす可能性がある
4) 日本の刑務所は、精神を患う者に治療の機会を与える場所ではない

C.I.C.の担当審査官はフィリピン人女性で、これには少し安心した。クレプトマニアのことはさておき、女性として子供が離されるつらさは、きっと男性よりも理解をもっているだろう。ここでもし「不適正」と判断されれば、僕らは速やかにカナダから強制排除の対象になる。

しかし僕は、「今回は絶対に大丈夫」と確信していた。
カナダは人権に対しては先進国で、特に子供たちへのプロテクションは厚い。

こんなことがあった。

子供を後ろに載せて自転車で走っていた時、向こうから「ピーッ!」という笛の音と共に、自転車の警察官が猛スピードでこっちに向かってきた。
「やばい!子供にヘルメットかぶせてないのが見られたか。まぁ適当言ってごまかそう。」
カナダでは、子供が自転車に乗るときはヘルメットを被らなくてはならないことは知っていた。だけど、まぁ近所だし、すみません、気をつけま〜す、で済ませようと思っていた。しかし、そのチャリ警察官は、

「お前がやっていることは重大な違反なんだ。お前が事故を起こして怪我をすることなどは、俺は全く気にしない。でもそれでこの子が怪我をすることは絶対にあってはならないことだ!」
「すみません、ヘルメットが盗まれたもので(ウソ)…」
「ここから自転車をひいて、家まで帰りなさい!」

子供は社会の宝、そういう思想が現場のチャリ警官にまで(あたりまえだけど)およんでいる。

もうひとつ余談だが、カナダの小学校では授業中などに児童がトイレに行くときは必ず同性のクラスメイトが付いていくことになっている。これは児童が一人でトイレに行った際に誰かに性的な虐待をうけることを予防するためだ。現在のカナダの素晴らしいことの一つは、社会的な弱者が法律でしっかりと守られていることだ。雇用に関しても同じで、個人のあり方は大変に尊重されている。役所に行った時に受付の男性が完全に厚化粧でクイアー(Queer)だった時は驚いた。しかしそのような意識を法整備と共に市民に教育して、やがて社会的なスタンダードになるのだと思う。

閑話休題、今回の申請には妻の精神疾患という「病気」に加え、母親を失ってしまうかもしれない子供たちを守らなくてはいけない、というリアルな佐藤家の実情をふんだんに盛り込んだ。故に、僕は今回の申請は「通る」と確信していた。

それから一ヶ月程してC.I.Cから届いた封書には、家族全員分の難民申請者証が入っていた。我々は晴れてFugitive(フュージティブ:逃亡者)からRefugee Claimant(レフュジー・クレイマント:難民申請者)になることが出来たのだ!

部屋で撮った顔写真 白い画用紙を手で持ってレフ版のかわりにした

これにより、健康保険がついてきて、子供は学生ビザがなくとも正式に学校に行く事ができ、僕はカナダで働く権利を得ることができた
さらにジョブ・トレーニングをうけることができて、月に15万円程の金ももらう事ができた。

ありがとう、カナダ!
捨てる神あれば拾う神あり。
僕と家族は正式にカナダ市民になる日がいつかくるかもしれない。

そう希望をもつ日々が、今始まろうとしていた…

<カナダ逃亡記#11>へ続く


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