『心とは神なり』 神道大意 現代語意訳
以下の訳文は、吉田神道の大成者である吉田兼倶卿の神道大意を、十年ほど前に私が現代風に意訳したものである。
とはいえ、さっと現代語にしたものであるので、この訳を盲信してはいけない。
この訳を読んで興味をもたれた方は、ぜひ原文を熟読してほしい。
神道大意 卜部兼倶
そもそも神とは、天地より先に存在して、しかも天地を定め、陰陽を超越しながらも、陰陽を成している。
天地に存在しては神といい、万物に存在しては霊といい、人に存在しては心という。
心とは神である。
それだからこそ神は天地の根元であり、万物の霊性であり、人の運命である。
体が無いからこそ、逆に完全に体のある物を養うのは神である。
それは人の五臓においては五神となる。
それぞれその臓器を守る者である。
それゆえに、神の字をたましゐと呼ぶのはこれである。
体の目に形を見て、心の眼は形を見ず、心の眼の見るところの本質を神という。
体の耳に音を聞いて、心の耳は表面の音を聞かず、心の耳の聞くところの本質を神という。
鼻の香りにおける、口の味における、身の暑さ寒さなどもみな、またこれらの如くである。
だからまさに、心はすなわち神のやどる宿であり、形は天地と同じ元から生まれた事を知るべきである。
天神七代地神五代をあわせて十二ある。
これは天地の神々の変化し世界を作りいくことである。
日月は天地の魂魄(たましい)である。
人の魂魄(たましい)は日月=陰陽=火水の二神の霊性である。
それゆえに、神道とは心を守る道である。
心が動く時は魂魄(たましい)が乱れ、心が静まる時は魂魄(たましい)は穏やかである。
心を守る時は鬼神(万物の霊)も静まるが、心を守らない時は神霊や鬼神が乱れて災難が起こる。
すべてはただ、自分の心の中の神を祭り鎮めるに過ぎたことはない。
これを内清浄という。
これに対し、外清浄とは心を働かすに七つの方法があり、
喜びといい、怒りといい、哀しみといい、楽しみといい、愛といい、悪といい、欲という七種がある。
また体を働かすには五つの方法があり、
生といい、長といい、老といい、病といい、死という五種がある。
合わせて十二あり、これが即ち前述した神代の数である。
心を用いているのに神で無いことなど無く、
体を養っているのに神を離れる事は無い。
喜ぶ心が過ぎる時は肝臓の神が傷つく。
怒る心が過ぎる時は心臓の神が傷つく。
哀れむ心が過ぎる時は肺臓の神が傷つく。
楽しむ心が過ぎる時は腎臓の神が傷つく。
愛(めで)る心が過ぎる時は胆の腑の神が傷つく。
悪(にく)む心が過ぎる時は大腸の腑の神が傷つく。
欲心の過ぎる時には脾臓の神が傷つく。
それゆえに、神が道を再び見る時に、けがれというのは執着の心を忌む意味である。
忌の字は、己が心と上下に書くことにより作られている。
これを以て知るべきなのは、道理はこのようであっても肉体を持っていては、
喜ばないことはなく、怒らないことはなく、哀しまないことはなく、楽しまないことはなく、
愛さないことはなく、悪(にく)まないことはなく、欲の無いことはあるわけがない。
結局、あやまちが及べば災難となり、あやまちが及べば諸々の病となる。
これを去らすには、中(何事にもかたよらない)ということしかない。
中(自分の心をどこにもかたよらせないこと)とは神である。
(自分の心という)神を知ることを悟り(心の差別を取る=差取り)という。
ゆえに神を知らないことを迷いといい、
迷いは迷っていることを知らないが故に、鬼神(万物の霊)が乱れて道を失う。
悟りは迷いを知り、迷いを知るときは鬼神(万物の霊)を祭る。
鬼神(万物の霊)を祭る時には、道が行われて天下が治まる。
道が行われて天下が治まるときは、全てのものが道に従うようになる。
全てのものが道に従う時は、天地の功がなり素晴らしい世界となる。
時というものは、名、つまり本質を本来の目的に運ぶものである。
本文にいうように、神を祭る者は安心であり、神を祭らない者は危険な状態といえる。
神に三種類の位がある。
一には元神、二には託神、三には鬼神である。
初めの元神とは、日月星辰の神である。
その光は天に現れて、その徳は全宇宙に至る。
けれども、直接にその精妙な姿を見ることはできない。
故に、浄妙不測(あまりの光にまぶしくてどんな姿かわからない)の元神と名づけられている。
二の託神とは、非情の精神である。
非情とは草木などの類である。
地に根ざして気を運び、空に出て形を現し、四季に応じて生老病死の変化がある。
けれどもこれは全く無心で無念である。
だから託神と名づけられている。
三の鬼神は、人の心の動きに従うことをいう。
わずか少しでも人の念が動けば、心は他の境地に移る。
だから心に天地を感じれば、他人の霊さえも自分の心に帰す。
字書には、鬼は帰であるという。
であれば、すなわち鬼神は心の賓客である。
他より来て他に帰り、家を出て家に帰ることのようである。
故に国家を保つには鬼神が多い。
鬼神が乱れる時は、国家が乱れると思える。
これによって、伏義は八卦をえがいて八神を祭り、
釈尊は天地の為に十二神を祭り、仏法の為に八十神を祭り、
伽藍の為に十八神を祭り、霊山の鎮守に金毘羅神を祭る。
すなわち十二神の内である。
この金毘羅神は日本の三輪大明神であると伝教大師の記文にある。
他の国でさえこのようである。
ましてわが神国においては。