「いやだ」を持てる私であれ
アクセスありがとうございます。
越路つぐみです。
えー世の中いろんなことがありますよね。
いいこともいやなこともそれなりにそれなりに。
私たちは、つらいことや悲しいこと、嫌なことを辛抱したり、我慢したり、こらえたりすることを成長の過程で学びます。
個人的には、辛抱も我慢もこらえることも必要なステップだと思っています。
ですが、いやなことそのものを平気になることは、「本当にそれでいいの?」と考える立場です。
というのも、私にとって嫌なものというのは、私の日常であったり、私が大切にしているものに対して、ネガティブな影響がありそうなものです。
そのため、それを平気になってしまうことって、私にとっては「暮らしにくいなぁ」と感じる生活になってしまいます。
平気なふりをするという我慢だったり、平気になるように辛抱するわけですから、いろいろ影響がありそうですよね。
そのため、【いやなものはいやなのだ】はそのまま据え置くことにしています。
逆に、いやなものをいやでなくそうとしているときは、ちょっと疲れているのかなとか、しんどいのかもしれないなと思うようにしています。
結局のところいやなものをいやと置いておいたうえで、どう付き合うかを自分で決めているような気がしています。
もしかしたら私がいやなことと付き合っていくためには、いやなままで置いておく必要があるのかもしれませんね。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
またの機会に。
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