『わたしは遅読家である』2023.10/17(火)
わたしは遅読家である。
ただの遅読家ではない。
メンヘラ持ちなのである。
日中は鬱の症状で、寝る必要がある。
そして、希薄な現実を埋めるために、物語が必要なのだ。
それは凡(おおよ)そ、夢で得られる場合が多い。
ただ、寝ているだけでは、あまりに非活動的、非生産的なので、積極的に外に出ようともしている。
話を少し、昔に戻そう。
わたしが引きこもりと呼ばれる第一世代だったと思う。
その頃は、ネット環境も乏しく、ゲームをするぐらいでしか、物語を体験することができなかった。
より正確には、昔から図書館もあったのだが、創作というきっかけもなく、生産性と結びつかない(と考えていた)読書にそれほどの価値を見出すこともできなかった。
もっと本を読めばよかったとは思うが、それはイラストレーターになることを諦めて、作家もどきになると決める、中年になるまでは難しかったのだろう……
本は、人生を豊かにしてくれる。
それは確かだ。
見識を広めた人間は、何も読まない人に比べて、先入観で動こうとせず、論理的な知恵を持って物事に対処する姿勢がある、と思う。
とはいえ、わたしは一介のニート。
今は事故により…… というよりも、自分自身の能力のなさから、世の中の隅っこにある仕事しか回ってこない。
話を遅読家であることに戻そう。
一日に一冊、本を読める人が本当に羨ましい。
だが、そういう脳の構造ではないので、自分なりに工夫しながら、読書離れをせず、創作活動…… つまりは書くことに打ち込んでいく。
書くことは特殊なことだと思う。
書けることは素晴らしいとは思うが、自己肯定という形が、文字を媒介に行われている作業とも言える。
喜怒哀楽を生じさせる文章を読むのは楽しいが、そこに没頭しすぎるあまり、自分を見失ないそうなことにならないか?、不安もある。
こう見えて、メンヘラである。
統合失調症の薬を、夜寝る前に一錠飲んで…… その一錠がわたしの精神的な社会生活を支えているのであった。
だから、あまり没頭しすぎることは、負担にもなりかねない。
用心しいしい、書いたら離れるのだ。
ただでさえ、最近は書くために、ウイスキーまで開けているのだから。
勢いに任せた筆使いでしか書けないものもある。
人の愚かさだ。
そしてそれは、内なる自分の愚かさでもある。
つまり官能小説の濡れ場であるが、ここでそれを詳しく書くつもりはない。
今日はここまでにしておこう。