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高級紳士服売り場にて
「肩にファンデついてますよ」
「これからは気を付けてくださいね」
——先日、いつもの美容室でいつものヘアースタイルにカットしてもらったあと、見送り時の店先で、女性担当美容師さんに、そう告げられた。
「えっ、どこですか!? えっ、自分じゃわからない、、まだ付いてますか?」
「ええ。あとで鏡でご覧になってみてください♪」
「……えええええ、あ!! 職場のコート掛けが密集してるから、それで付いたのかも??」
「ふふ、そんなことはないでしょう~」
「ええええええ、ないですかね。。え、じゃあなに、これ、えっ、えっ……以後、気を付けます。。ありがとうございました。。」
チェスターコートの左肩にファンデが付いていると指摘され、慌てふためいた私は、「最近デリヘル利用したっけ??」と、ここ数日の行動について必死に思い出そうとし、「ファンデの附着痕から、デリヘル利用がバレることってあるのかな」ということにまで思いを巡らせていた。
しかし、よくよく考えてみれば、このクリーニングから返ってきたばかりのコートをクローゼットから取り出したのは三日前の話で、その間に、女の子とそういうムードになったことはおろか、プライベートで人間にすら会っていないことに思い至るも時すでに遅し。
「そういうことが、近頃ないでもなかった」ということは、担当美容師さんに知られてしまったわけだ。赤面。まあそれはよいとして——。
改めて鏡で左肩を見てみると、ファンデの跡と言われるものが付いているようには見えない。白い粉のようなものだと想像するが、どれだけ目を凝らしてもよくわからない。光の加減なのだろうか、と訝っていると、どうやらこのコート全体が、だいぶ経年劣化しているようだ。
さらにコートを隈なく点検してみる。すると、随分と傷んでいる箇所が全体的に見受けられる。白っぽく見えたのは光の加減のようで、その部分は生地が擦れて、周りより厚みがなくなっていることに気付く。そうして気付いてみると、どうやらその摩耗は左肩だけではなく、右肩、背中側の腰のあたり、両脇の下にまで及んでいる。……どうやらこれは、背負っているリュックのショルダーベルト部分が擦れ、長年の摩擦によって擦り減った痕跡のようだ。生地が傷んで摩耗し、光の加減によっては、白く粉を吹いたような景観になってしまっていたようだ。
長年、と言ったが、おそらくまだ3シーズンほどしか着ていないうえ、購入した時の値段も、そんなに安かったわけではなく、「長年着れるものを、良いお値段で」というのが私の服購入時におけるポリシーなのだが、どうやら「お金を出せば、価値もついてくる」というのは、もはや昔の話になりつつあるのかもしれない。
「こんな、ファンデと間違われるような服、毎回毎回気付いた女子に、心の中で、「あ、ファンデだ」と思われるなんて、恥ずかしすぎる。それは私にとって、「肩に精子の痕が附着している」みたいで、「とてもじゃないけど着ていけない!! お嫁に行けないわ!!」というわけで、コートを新調しようと思い、いくつかの服飾店を物色して回ることになった。
一度泣きを見ているので、学習する必要がある。多少値が張っても良い、という考えに変わりはないが、今回のような事態を避けるにはどうしたらよいか。考えた挙句、仕立てのきちんとしたスーツの取り扱いのある紳士服店を物色してみることにした。
値段は普通の服飾店に売っているコート類の1.5~2倍程度。それにいまは冬のセール期間中で、二万五千円程度出せば、最低でも5年以上は着用できる品物が手に入るだろう。
裏地もしっかりしているし、ストレッチも利いている。前回のコートと色味も作りもたいして変わらないが、流行り廃りのないこの形が気に入っているので、これにしよう。ただ、SサイズよりもMサイズのほうが肩幅に余裕がありそうだな……。
「……Mサイズの在庫、お調べいたしますので少々お待ちください」
最初に応対してくれた女性販売員が、バックヤードに向い、在庫を確認しに行った。
鏡の前で再度、こっちじゃなくてよいか、と、いくつか候補にしていたコートを着て、自問してみる。
すると、10メートルと離れていない売り場の通路に、先ほどの女性販売員と、その隣にいる、別の男性販売員がきょろきょろと辺りを窺いながら立っている姿が、私の左肩越しに目に入った。
「あちらにおられます」
私は、それを受けて応えた男の返答に、ギョッとした。
「……ああ、あのひと」
そのまま、ツカツカと私のいる方向へ歩を進め、それにしては進路の延長線上には私はおらんなあ、おかしいなあ、とフリーズしていると、男は、私の背後をそのまま何も言わずに颯爽と通り過ぎ、別の入り口からバックヤードへと引っ込んでいった。
「お調べいたしておりますので、少々お待ちください」
女性販売員は、私のそばに歩み寄るなり、そう言い残し、その場を離れた。
男の販売員のあの態度。入店したときに一瞬見た顔だった気がするが、なにか嘲っているような、うっすらとした含み笑いを、私は思い過ごしだと思うようにして、目的のコートを探し始めたのだった。あのとき感じた嘲弄は、どうやら勘違いではなかったらしい。
私の姿を認め、「……ああ、あのひと」と、言葉を言い放ったとき、明らかに私のことをナメきった、ぞんざいな口調で、べつに聞こえても構わんという声量であった。
もちろん、売り場に委縮していた、というのはある。入店する前から少しは懸念していたことではあったが、こちらが堂々としていれば、相手もそれなりの態度を示してくれるだろう、萎縮するから付け込まれるのだ、と脳裏で考えるともなく考え、決意を固めていた。
しかし、入店直後、売り場にはスーツしか置いていなく、複数のスーツをピシッと着こなした男性販売員らの視線を感じ、品定めされているような、探りを入れられているような「いらっしゃいませ」コールに、私の心臓は縮こまった。
とりあえず視界に入ったチェスターコートの袖に縋りつき、呼吸を整える。「落ち着け、落ち着け」
と、そこに女性販売員が斜め後ろから声をかけてくれた。
「なにかお探しですか」
品定めするような視線といらっしゃいませコールを寄越した男性販売員らとは違い、彼女が「お客さん」に接する態度で臨んできたことに力を借りて、「普段着で着れる、チェスターコートを探してまして……!」
「でしたら、こちらにございます」
私は最初こそたどたどしかったが、徐々に、本来の自分のペースを取り戻し、物怖じすることなく、いくつかのコートを試着し、鏡の前でくるくると回ってみせた。
「お待たせいたしました、どうやら在庫がないようでして……。お取り寄せなさいますか?」
先程の女性販売員の姿が私の視界で像を結ぶ。
「はい、お願いします」
そして今日。ほかに男性販売員は売り場に居た。少し歩みを進めれば、別の男性販売員も立っていたのだ。それなのに。私は、一番近くにいた、あの、ムカついたはずの男性販売員の前に進み出で、「あの、取り寄せしてたんですけど」と、なぜか私のほうが後ろめたいことでもあるかのような恐縮した態度で、声をかけていた。しくじった。
このまま素通りして、もうひとつ奥に居る男性販売員に声をかけたなら、私はこの男に、ささやかな復讐を果たせたはずだったのに。
さぞ自信があるのだろう。悪びれる様子など微塵も見せず、気取った作り笑顔で、「ご用意いたしますので、お待ちください」と言い残し、バックヤードに消えた。相も変わらず、私に対する態度は、どこかぞんざいである。
私はどこかで、まだこの男のことを信じようとしていたのかもしれない。いや、というより、私の思い込みの強さ、自意識の拗らせ具合は、単なる勘違いで、男性販売員は普段通りの接客を行うはずだ、と、自分に言い聞かせていた。とんだ勘違いだったわけだ。別のベクトルで。
簡単な試着を終え、あまり長居したくない気持ちから、「こちらでお願いします」と告げると、「お包みいたします」と、クソほど丁寧な所作に見せかけた、たっぷりと時間をかけた包装をはじめた。居心地悪そうにしている私の心を見透かしいるのかもしれない。
当初、支払いはクレジットカードで分割払いにする予定だった。だが私は、その男の所作の落ち度を、見逃すまいという思いと、相手を視界に入れることに耐えられない、という思いとの狭間でユリユリし、ただただこのお店で使える支払い方法のパネルを、放心状態で凝視していた。
気が付くと私は、「支払いはIDでお願いします」と口走っていた。
男がそこで一瞬キョトンとしたのも、てっきり私がクレカで分割払いをする程度の稼ぎの人間、と見做されていたからかもしれない。
「ありがとうございました」
品物を手に、店の入り口まで付いてきた男性販売員が私を見送る。
「ありがとうございます」
私は品物を受け取り、その場をあとにした。二度とこの店には来ない、ということを心に誓いながら。
いくつもいくつも、一矢報いるチャンスはあったはずだ。
「あの男性販売員の方、さっき私のこと「ああ、あのひと」って言いましたよね? あの人はお客によって態度を変えられる方なんですか? クレームとして上司の方にお伝え願います」
「あなたはお客さんのこと、『あのひと』って呼ぶんですか?」
当該男性販売員を素通りして、別の販売員に声をかける。
「ご用意いたしますので、お待ちください」 「うん、よろしく~」
「入り口までお持ちします」 「いえ、ここで結構です」
「ありがとうございました」 「(無言)」
私は狐に捕食されるのを待つ子兎のように、硬直していた。逃げるチャンスなど、いくらでもあったはずなのに。恐怖に支配されて、その場を動くことができなかった。
昔から、私をぞんざいに扱うものに対するこの恐怖心は、いったいなんなのであろうか。 いつになったら、私は私のことを自衛できるようになるのだろうか。そんな日は果たして、来るのだろうか。