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雑記

 盛大にフラれた。いや、フラれた「らしい」。
 私は、やりとりしている最中には気が付かなかったが、友達に指摘され、自分でもLINEのやりとりを読み返しているうちに、いくつもチャンスはあったこと、そして今すぐには「変われ」なくとも、「磨く」ことはできたのだ。少なくとも彼女は何度も、そのチャンスを示唆してくれていたことに、気付いたときには後の祭り。

 お気に入りの(といってもまだ一度しかお手合わせしていないのだが)嬢に、年明けからお世話になろうとちょくちょく出勤予定を確認していたのだが、いつまで経っても更新されないので「もしや」と思ったのも束の間、お店のホームページから彼女は姿を消していた。

 続けざま、なんとなく嫌な予感は的中するもので、「もしや」と思い、中途半端なやりとりで終わっていた彼女のLINEを確認してみると、見事的中。ブロックされていた。たしかに、やりとりの最後を読み返すと、「終」の文字が書かれていてもおかしくないトーク履歴だった。

 つらいのかつらくないのか、よくわからない。きっと、「わからない」のなら、そんなにつらくはないのだろう。きっと彼女もそう指摘したと思う。あの語尾を伸ばす独特の声音で。

 と、綴っていたのが1月28日。つまり一週間前。(まだそんなものか。もっと経っているかと思った)

 去勢を済ませたかのようにほとんど未練らしい未練もなく、だから自分は友達との関係をあっさり切るし、そのことを後々悔いたりしないのだな、と思った。

 いま読んでいる本の影響か、これは大変ショックな体験であるから、感情と記憶の統合を図るまいとした「意識」の哀しく姑息(ある意味利口)な成せる業なのか? とも思ったり。

 今日は久々に、「外を歩いていて、とても怯えた自分、自分のレーゾンデートル(存在意義)が揺らいでいる感覚」に陥っており、挙動不審ぎみだ。弁当用の食材を買って、あとは大人しく帰ろう。(昨日はデリを利用しようかと考えていたのだけど)
 それにしても、大嶋先生の本を読んでいるというのに、これはいったいどういうことなのか。(ひとりごと)
 ただ、おもしろいのは、辻信一氏の『ナマケモノ教授のムダのてつがく』を読んでから、自分が意識できている意識の上では、「時間」に対する見方への変容が起きていると感じられるのに、自分が意識できていない意識の面ではどこかちぐはぐ。ということが言いたいのではなくて、(それもあるけど)去年は、ジェンダー(ヘテロセクシャル)についての読書がはかどり、理解が深まった年となったのに対して、今年は「土と微生物と臓器」がなにやら自分の中でトレンドにきているなあ、と思った矢先、「内臓はなんでも知っている」という小見出しに思わず声を出して笑ってしまう。(まあ読書というのは往々にして一見無関係な本を読んでいるのに、リンクするということが稀にある)

 FAPカウンセリングひさびさに受けてみるかなあと思った午後19時27分。

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