彼女の苦悩と個人の責任について
お疲れ様です。
彼女と、彼女が働く職場の話をした。
彼女が働く会社は従業員数30名ほどの中小企業で、彼女はそこの経理を1人でやっている。
彼女が働き出したのは1年半前だが、職場環境と人間関係に悪影響を受けて彼女は強迫性障害を患ってしまった。
入社3ヶ月で未経験入社にも関わらず経理を1人で任され、先輩社員からは小言を言われ、上司は経理の仕事を把握しておらず毎日何をしているのかわからないし、営業事務のジジイは前歯がなくてクチャクチャと音を鳴らしながら飴を舐め続けていて、隣の席の後輩は仕事中にYahooニュースを見てサボっているためそのしわ寄せが自分に回ってくる。
考えすぎだと言う人もいるかもしれないが、まあ普通に劣悪な環境だろう。
そんな中で彼女はスキルを磨いて主任まで昇進した。
その功績には本当に敬意を表したいのだが、彼女が強迫性障害を患ってしまったことに対して僕自身も責任を感じている。
こうなってしまう前になんとかできなかったのかと自分に問うと、色んな手段があったことを考えてしまう。
申し訳なさと、今こそその責任を果たすために、僕ができることを全てやろうと決心した。
まず1番にやるべきことは話を聞くことだと、色んな本を読んで学んだ。
不安なこと、嫌なことを話すだけで多少スッキリするだろう。
さらに、話すことの効力はそれだけでなく、話すことによって自分の主観から感情を切り離して客体化することで客観的に考えられるようになる。
その効力を充分に活かすために、話と契機となる質問と共感を示す合いの手だけを入れて、あとは自分の意見を何も言わずに話を聴くことにしている。
できるだけ彼女から話を引き出し、それに共感を示すことで安心してもらい、最終的に話を整理して客観視してもらう。
やることがわかっていても実際にちゃんと聴くというのは難しい。
自分の意見や価値観や判断をどうしても挟もうとしてしまう、その度にダメだダメだと思いながらじっと聴く。
これがどこまで効果があるかわからないが、少しでも彼女のためになれるように続けていきたい。
こうしたどうしようもない問題に直面しながら、ふと考えることがあった。
それは、自分ももしかしたら今まで誰かにとっての「どうしようもない問題」であったのではないかということだ。
「他人は変えられない、でも、自分は変えられる」、この言葉が唱えられるようになって久しいが、この言葉を唱える人の全員が「自分」側であることを想定していて、誰も「他人」側であるとは考えていない。
最近のYoutubeや書店を見ていても思う。
「威圧的な上司についての心理分析」や「職場の〜な人への対処法」など、自分に敵対する人間についての分析や対処が多く語られるようになり、僕も含め、みんながそれに興味を持っている。
ただ、興味を持つ人はみんな、自分がもしかしたら対処される側の人間であることは考えていないだろう。
個人の幸福追求についての知識や理論は様々なものが生み出されている。
でも、個人の責任について、自分がもしかしたら誰かに悪影響を与えてしまっていないか、また与えないためにはどうしたらいいかについて記すメディアは少ない気がする。
彼女の苦しみに寄り添いながら思う、社会は「個人の責任」という側面まで語り始めないといけないのではないか。
自身の幸福を最大限に追求する個人の集合としての社会に、より幸福になれる理論や知識を投じるのは火に油を注ぐようなもので、その火は確実に個人を燃やし始めている。
個人には他者への配慮という社会的責任があることをこれから先考えなきゃいけないんじゃないかと思う。
彼女の悩みの種となっている人たちには社会的責任の概念が大きく欠けていると思うし、同時に僕も彼女も社会的責任については自省を繰り返していくべきなのだ。
社会全体がこうした責任について考える態度を取らなくては、彼女のような苦しみを持つ人は増えるばかりではないかと思うのだ。
話を最初に戻すと、今僕は彼女の話をきちんと聴くことで彼女の助けになろうとしているが、このこと自体も正直リスクが伴っている。
僕は心理学に精通しているわけではないため、話を聴くという行為が確実に彼女にとって良いという確証はない。
だから、カウンセラーへの相談なども視野に入れつつ、これからも支えたいと思う。
僕を鬱病のどん底から救ってくれた彼女のために、今度は僕が彼女を救いたい。