こんにゃくの「アク抜き不要」から考える知性主義
お疲れ様です。
僕は今無職なので晩ごはんを毎日作っている。
今日はこんにゃくと蓮根が安かったので筑前煮でもしようと思い、こんにゃくをいつも通りに熱湯で茹でてアク抜きする。
ふと思った。
この世の中に、こんにゃくの袋に書いてある「アク抜き不要」を信じている人はどのくらいいるのか、と。
ちなみに言っておくが、今からする話は決してこんにゃくメーカーさんに異議を唱えたり、貶めようとする意図はない。
僕が意図するのは、こんにゃくの「アク抜き不要」を通して日常生活に根を張る知性主義の存在を明らかにすることである。(それらしいこと言ってるが、マジでどうでもいい話をする。)
僕が料理好きになったのは大学生のころ。
学生の頃というのは基本的に金がない。
なので、近所のドンキでいつも安売りされているもやしとこんにゃくを色んな料理にしていた。
もちろん、僕もはじめはこんにゃくの袋に書いてある「アク抜き不要」を信じる者だった。
でも、あるときこんにゃくで豚汁を作ったとき、味見をするとこんにゃくの香りが気になってしまった。
その時だけメーカーが違うとか、そういったことはありえない、いつものドンキのこんにゃくだ。
さらに、今度はこんにゃくで煮物を作ると、煮汁が「こんにゃくですよ」という香りになっている気がした。
そこでようやくググった。
すると、こんにゃくは本来アク抜きが必要であることを知り、それ以来僕はこんにゃくの「アク抜き不要」を信じなくなったのである。
いや、信じなくなったというか、「アク抜き不要」という蒙昧から理性が解き放たれ、啓蒙されたと言っていい。
知性主義という言葉がある。
僕のうろ覚えで説明すると、大学教授や専門家などの権威による知識を肯定するというような、知識に対する保守的な立場のことだ。
それに対して、1970年代の学生運動が掲げていた反知性主義というものもあり、これは知識の真偽から権威性を排除し、純粋で真なる知識を求めようとする立場のこと。
なぜこの話をしたかというと、こんにゃくの「アク抜き不要」を信じてアク抜きしないというのは知性主義的だと思うからだ。
つまり、こんにゃくメーカーが「アク抜き不要」と言っているのだからほとんどの人はアク抜きをしない、ということが起きているのではないかと思うのである。
もっと言えば、近年ごぼうのアク抜きは不要と言われている。
ごぼう農家さん曰く、アク抜きするとごぼうの風味が損なわれるためである。
久々に実家に帰ると、今までごぼうのアク抜きをしていた母が「アク抜きしない方が美味しいんだって」と言ってそのまま調理していた。
確かにアク抜きするとごぼうの香りが抜ける。
だが考えてほしい。
ごぼうの香りってめちゃくちゃ強い。
だから、泥臭さのあるドジョウを使う柳川鍋や牛肉の時雨煮にはごぼうが使われる。
それほどの被覆力のある香りを持ったごぼうをそのまま他の料理に使うと、料理によってはごぼうの香りが強すぎて、食べると「ごぼうだよー」と真っ先にごぼうが突き抜けてくるのだ。
料理じゃない例も出そう。
雨が降りそうな夕暮れ時、オフィスビルから一斉に人が帰宅のために出てくる。
そのときふと、ビルから出ようとする人が傘を刺す。
するとみんなその人を真似て傘を刺し始める。
僕に言わせれば、この光景はある種人間の理性の限界を示していると思う。
なぜかというと雨が降りそうなときに傘を刺すのは雨に濡れないための賢明な行為であって、逆に傘を刺さないのは雨に濡れるリスクを伴う愚鈍な行為であるから、賢明な行為をした人を真似ようという知性主義が発揮されている気がするためである。
こういう場合、僕の経験則では、傘を刺さずに外に出てみると雨は降っておらず、なのにたくさんの人が傘を刺しているという不思議な事態になる。
反知性主義が唱えられて久しいが、知性主義は決して学問的分野のみに存在するのではなく、むしろ日常生活において深い根を張っている。
僕が思うのは、ネットのおかげで会ったこともないその道のプロの知識が簡単に手に入るせいで、自分の感覚や経験から得られる知識がないがしろにされているのではないかということだ。
こんにゃくはアク抜きした方がおいしいし、おせちに入ってるたたきごぼうを作るときはアク抜きした方が美味しいし、ゴーヤの白いわたは食べてみるとそんなに苦くないのである。
ネットの情報はめちゃくちゃ役に立つのは確かだが、自分の感覚や経験も同じように役に立つ。
ちなみに、彼女にこんにゃくのアク抜きの話をしたら、「知性主義どうこうというより、めんどくさいからアク抜きしないだけでは?」と言われ、確かにーと思った。