ルーミーの話
いかに自分の知っていることが限られたものか、と気づいたことはこの旅の収穫だった。
かつて、知らないって強いと書いたけれど、ある国や文化で有名だったりスーパースターだとしても、場所が変わればまったく知られてないこともいっぱいある。
今参加しているアメリカ・カナダ人に人気のツアー主催者、旅行のカリスマ、リックおじさんとて同じこと。
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さて、ルーミーという名前はご存じだろうか。
マウラーナー(メヴラーナ)・ジャラール・ウッディーン・ルーミー(あるいは バルヒー)は13世紀の詩人、らしい。
ルーミーとは元東ローマ帝国だったアナトリア地方をさす「ルーム地方」の人、という意味。
アナトリア地方の現在国であるトルコ人が呼ぶ名前。
彼が生まれたのは1207年、現在のアフガニスタン北部のバルフだった。
だから、アフガニスタン人やイラン人は、この世界的に有名な詩人のことをルーミーではなく、バルヒーと呼ぶらしい。
生まれ故郷と生涯を過ごした地。
偉人の所属がどこなのかを名声の後に争いあうのは、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を取った時のようなもの。
欧米にはトルコを経由してその作品や思想が広がったため、一般的にはルーミーとして知られるようだが、呼び方ひとつとっても、この地域の地理政治学的難しさを垣間見ることができる。
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12歳のルーミーは、チンギス・ハンが西方に向けて勢力拡大を開始したため、家族と共に郷里を去り、10年間の流浪の旅の末、コンヤの街にたどり着き、そこでその後の生涯を過ごした。
詩作は膨大な数にのぼり、その思想に惹かれた者たちから「メヴラーナ(我々の師)」と呼ばれるようになる。
ヨガや禅と同じように、ニンゲンの知覚を超えることで神秘的レベルに到達することを目指すそのスタイルは、死後、彼の息子により、旋回によってトランス状態になりアッラーと一体化する「セマー」という儀式として確立される。
やがてその集団が発展し、「メヴレヴィー(師を慕うもの)教団」となった。
しかしアタトゥルクによりトルコ共和国が建国されると、「神秘主義は国家発展の障害となる」という旗のもと、メヴレヴィーは宗教色を排除させられる。
ゆえに私が訪れたコンヤにあるルーミー霊廟は「博物館」という位置づけがされていた。
博物館なのだからスカーフの着用は必要じゃない。とはいっても、霊廟の中には祈祷のスペースが男女別に設けられ、中ではお参りにきた人々がひざまづきお祈りを捧げているのが垣間みえた。
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どうしてモスク然とした建物に行くのに髪を隠さずよいのか。
どうしてこの巨大な霊廟を訪ねるのか。
そももそルーミーってだれ?
全くよくわかっていないまま、私はツアーガイドの説明するルーミーの思想や生涯の話を聞いていた。
3人で交代にツインとシングルの部屋を入れ替わる中、たまたまコンヤは私がシングルルームの日だったので、ホテルに着いたあと、自室でルーミーについていろいろ検索し読みふけった。
アメリカで一番読まれている詩集の著者。
欧米ではとても有名…らしい。
でもヨーロッパにいてトルコに行くといっても誰も触れたことがなかったなあ。
すごい人だいうことは伝わってきたが、日本語で検索した時に最初に上がってきたのは「ブラッド・ピットは彼の詩を刺青ににしている」という記事だった。
ブラッド・ピットだけでなく、アメリカ人、特にリックおじさんのツアーに参加するようなリベラル知的階級のアメリカ人にとっては知ってて当たりまえの存在らしい。
ジャネルにいわせると
「え、ルーミー知らない人いるの?ヨーロッパでも知られてるでしょう?」というレベルらしい。
すみません。知りませんでした。
ようやく追いついた私は、その後も情報を読み続けた。
ルーミーの詩には確かに惹かれるものがあったから。
ブラット・ピットが身体に彫り込んだという上記の詩から読めるように、ルーミーはイスラムを基礎にしアッラーという名であらわされる彼の「神」との一体化を目指していつつも、そこに至る道(どんな宗教か)や、その到達点(神の名前やそもそも神と呼ばれるものなのかも含め)は限定されず、普遍なものだといいたかったのだろう。
それは、ボートの大小はあれ、目指す先は同じであり、つまりは宗教の多様さを寛容な気持ちで抱合し、理解し合えるはずだということでもある。
そしてそれはモスクでのイマムとの会話とも繋がる。
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ルーミー廟からその日の宿に移動し解散となった。
ジャネルはヨガでストレッチしたいというのでジェニーと私は近くのマーケットを見て回ることにした。
戻って来ると、ツアーのメンバーがロビーに集っていた。
きけば、みんなで一緒にガイドお勧めの店にディナーにいくのだという。
私たちは彼らを見送って、自分たちで適当にレストランを探すことにした。
「ここは?」
「おじさんしかいないから嫌だ」
「ここは?」
「なんかイマイチ」
ようやく裏路地でブルカを来たおばあさんと髪を隠した娘、そしてその3歳くらいの息子が食事をしている店を見つけた。
炭火で肉を焼く煙がのぼり、おいしそうな玉ねぎや茄子が山積みになっていた。
ここだ!
簡単なやり取りは問題なかったが、その店には書かれたメニューが存在しなかったので注文に四苦八苦することになった。
みていると、次々とやってくる客はただ声を掛け合って注文をすませて席についている。
ガラスケースのものが何なのか。
ラムはないのか。
丸いガンモのようなものは何なのか。
食べ物の細かな英語がなかなか通じず、ジェニーが携帯でトルコ語に翻訳してみせた。
と、ウェイターの20歳くらいの若者が「僕シリア人なんで」と呟いた。
「あ、ごめんなさい!じゃあアラビア語にしないとわからない?」
「いやもちろんトルコ語もわかるけれど」
きけば、難民としてトルコにきて、本当はヨーロッパやアメリカへ行ってみたいけれど、今の状況ではトルコを出てどこ行くこともできないのだという。
ジェニーは自分の長男と変わらないくらいのその若者が、限られた未来の中で生きていることがどうにも心に強く響いたようだった。
私が茄子が食べたいというと、牛の挽肉団子と茄子を串に刺し焼いたものは典型的なシリア料理なのだといった。
「ここはトルコ料理じゃなく、シリア料理の店なんです」
少し胸を張るように彼がいった。
茄子も、ジェニーとジャネルが頼んだチキンもとても美味しかった。
しかも3人で300TL(2,000円)もしなかった。
ここはチップを弾むところだよね。
3人でうなずき、私たちはいっぱいのお腹を抱えて店を出た。
「ご馳走さま。いつかアメリカやヨーロッパに来られるといいね」
ジェニーが若者に声をかける。
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ルーミーが説いたもの。
それは、民族や肌や信じるものや話す言語には関係ないニンゲンとしての真理があるということではないのか。
なのに、どうして母国シリアを離れ、そして欧米にいつか行くことを夢見て若者はこの街に留まらなくてはならないのか。
考えさせられるコンヤの一夜だった。