
山と山はであわない
Mlima haikutani lakini binadamu hukutana
(Mountains don't meet, but humans do)
山と山は出会わないが人と人は出会う
少し、村上春樹を思い起させる。
第一印象は、それだった。
もちろん、印象であって、実際の世界の人に聞いてみたさんは、もっともっとお若い。そして世界を股にかけるビジネスマンさんである。
♢
昔、スコットランドのブックフェスティバルで講演したときの村上春樹。
あんなにいろんなことを小説やエッセイに雄弁に書き綴っている職業作家だというのに、目の前の壇上にTシャツを着て座りマイクを握っている男性は、むしろシャイで言葉少な。
♢
世界の人に聞いてみたさんからご連絡をいただいたのは、3か月の日本出張が終わりを迎えるころだった。
ロンドンに10日ほど滞在されるという。
ロンドンに戻る私と、しかも移動日が同じ。
これは啓示に違いない。
よかったらお会いしませんかとお返事した。
正直、noteのだれかと会う、ということには緊張もあった。
されているだろう期待を裏切っちゃったらどうしようとか、せっかくのロンドンの時間が無駄になったと思われちゃったらどうしようとか。
でも。
山と山は出会わないけれど、ひととひとは出会う。
それに、山と山は離れられないけれど、ひとは距離を取ることだって時にはあるのだから、あまり思いつめずに、お誘いしよう。
こうして実現した、ロンドンの運河ちかくのパブでの時間。
♢
noteの結ぶネットワークというのはとても不思議なものだ。
かなりの自己開示をしているというのに、その受け取り手とは距離がある。いや、受け取り手との距離があるからこそ、かなりの自己開示をしているのかもしれない。
だから、その読み手の人とお話しするのは、私が経験してきたイベントをただ知っているひとではなく、そのとき私が何を考えたか、どうそれが今につながっているかという「心象風景」を知っているひとと話すということだ。
知らないけれど、知っている。
こそばゆいけれど、とても心地いい感覚。
なぜなら、相手の「心象風景」もある程度わかっているから。
だから。
ロンドンらしい灰色の空から薄陽が差し込むパブで、たった数時間の会話だったけれど、
それは、スーッと解凍マットの上でアイスキューブが溶けるように自然に。
洗いこなれたガーゼタオルが水を吸い込むようにやわらかに、過ぎていった。
♢
人間はそうそうクリエイティブにはできていなくて、やはり何かを生むためには、原料が必要だ。
発展・統合させた考えや、新奇な思いつきのおおもとには、たくさんの意識・無意識に行われた情報吸収が隠されているはず。
用意されたレールを、何も考えず、なにも挑戦せず歩いていくだけでは、そのレールを越えた考えは生まれてこない。
♢
私のnoteは、自分の経験、そのとき何を感じたか、そこから何を考えるようになったかを書くことが多い。
世界の人に聞いてみたさんは、むしろ活発な議論の場をジャーナルとして記録し、そこで出てきたさまざまな意見を書いていることが多い。
ある種、あえて「私見をまじえず」書き留めている印象だ。
発露としてのnoteは、だから、私小説と評論のようにまるで対照的なトーンではあるのだけれど、自分をさらに発展させるための情報吸収の経験を記している、という意味で、そこにはとてもクリアな共通点があるように思う。
だから、会話のあちらこちらで「みなまで云うな」的モーメントがやって来た。「そうそう、それなんですよ」という通じる安心感。
♢
歳を取り、おとなになったいま。
仕事や、旅や、引っ越しで世界を広げ、いろいろなバックグラウンドからやってきたひとと出会うようになった。
そうして思うことは、人間がその人生の道のりで、
どれだけ素敵な景色をみて育ったか、
尊敬できる人にであったか、
つらいことに、そして自分にしっかり向き合って、困難を乗り越えてきたのか、
そういったことで、人生の深みやどんな人になるかが大きく変わるんだなということ。
そういった過去の深く広いいろんな体験の積み重ねが、人生の思考筋トレとなって、思考の原泉となっていくんじゃないかと。
世界の人に聞いてみたさんは、ドイツで過ごしていたとき、周囲の人と話したこと、聞いたこと、そこから考えたことをずっと書き留めていたのだという。そしてnoteにあらためて取りまとめているのだと。
それこそがまさに、筋トレ。
「だから、そのうちネタが切れちゃうんです」
そう照れた笑顔を見せていたけれど。
でもまだまだ続くだろう、その問題提起と思考のきっかけも楽しみだし、
さらに。
ドイツで書き留めたものをすべてnoteで分けてくださったあと
世界の人に聞いてみたさんが何を書き始めるのか。
楽しみに待ちたいなと思う。
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