誕生日inクロアチア
今から14年前、2010年の夏。
ロンドンに引っ越してきたばかりの私には、会社のネットワーク以外あまり交流の輪がなかった。
それも寂しすぎる、と自分を奮い立たせ、ジャズを聴きに行くグループに参加してみたり、さまざまな国からロンドンに来た女性のグループというのに参加してみたり。けれども、あまり愉快な経験はなかった。
当時のオフィスには日本人はほぼゼロ。
イギリスに家族や親戚が誰もいない私は、だから、日本語を話す機会もほとんどなかった。
日本人コミュニティにも参加してみるかと、日本語掲示板にでていた集まりに顔を出したら、気が合う仲間がみつかった。
♢
「夏のあいだにどっかに行きたいけど、どこに行きたいかは分かんないんだよね」
引っ越してきたのは前の年の終わりだったから、ヨーロッパに暮らす夏は初めてだった。
チームや仕事に慣れようとバタバタもがくうちにいつも間にか夏は終わりそうになっていた。でも、一人旅はちょっとさみしい。
だから、その2人に声を掛けた。
「あ、オレ、クロアチアがいい」
二宮くん(仮名)が間髪入れずそういった。有名商社でバリバリ海産物や土地を転がしてきた彼は、わかりやすく行動力の人だった。
「うん、いいよ」
鈴木くん(仮名)がすぐに同意した。
彼は物静かなシステムエンジニア。
「それ、どこにあるの?ご飯おいしい?」
といったのは私。
ご飯のおいしさは、何より大事だもの。
◇
ガトウィック空港からクロアチアのスプリトへ飛ぶ飛行機は、早朝だった。その後は当たり前になる「格安航空会社の安いチケットで飛ぶ代わりに、めちゃくちゃ早い出発時間」という旅も、それが初めてだった。
「え、それって朝の3時位に家を出なくちゃいけないじゃん」
ということで、前の晩から二宮くんの家で飲み、そのままミニキャブで空港へ行くことにした。
そう、まだUberはない時代(考えたらまだみんなノキアの携帯で、スマートフォンすらなかったような)。
さらにこの旅で初めて、ブリティッシュ航空のようなナショナルフラッグの航空会社と、格安航空会社の「機内持ち込み手荷物サイズ」が異なる、ということを学んだ。
£25の追加料金支払い、という形で。
ともかくも、私達3人は、無事に機上のひととなった。
◇
スプリトは快晴。
スムーズな着陸。
さて、どうやって市内へいこう。
まさか空港からの公共交通機関がない、などと思ってもいなかった私は、旧ユーゴスラビア国のことをまったく理解していなかった無垢で無知な日本人観光客そのものだった。
彼らにとっての空港の特別さや、そこが市民とはまだまだ縁の薄い場所だったということを、ちっともわかっていなかった。
何年も後になって、ボスニアヘルツェゴビナでも学ぶことになるのだけど。
「うーん、タクシーかなあ…」
と見上げた看板には数字の横に「Kn」という謎の文字が書いてあった。
そう。当時、クロアチアの通貨はクーナ(HRK)。
(ちなみにどうしてクロアチアのISOコードがHRと表記されるかというと、クロアチア語でクロアチアはHrvatskaと呼ぶからだ)
€や$のように「Kn」という単位が看板には書かれる…ということを知ったのは後のこと。
私達3人はお互いを見合わせて「え、なにこれ?」と呆然とした。
そう。当時のクロアチアはまだEU加盟候補国、だった。
私達みんな、ポンドとユーロしか持っていなかった。
2010年当時の私は、大陸側に行くならユーロをもっていけば済むと思い込んでいた。
Knがなんという名前の通貨を示すのかすら、わかっていなかった。
そうやって戸惑っているうちに、待っていたタクシーはすべて消えてしまい、あとには迎えにでも来ているのか、地元のひとたちが車のまわりにたたずんでいるだけだった。
「よし。なんとかしてくるよ」
二宮くん、さすがの商社マンだった。
スタスタと空港ロビーをでていくと、なんと他に空港から市内に向かうという観光客が乗る(おそらく白タクの)バンに、割り勘で私達も一緒に乗せてもらう約束を取り付けてきた。
「なんかあったら、『おれたちは運転手とファミリーだ』といえってさ」
荷物を膝にかかえこみ、ガタガタの3人分の後部座席に4人押し込まれながら。いや、どうみても私達に血縁関係、なさそうだけど…と思っていた。
◇
当時のクロアチアは、EU加盟の準備に国中がわきかえっているところだった。
観光客が増えはじめ、「ツーリスト価格」が少しずついろんな場所に浸透をし始め、そしてたくさんのことが混沌としていた。
ホテルに着いたらレンタカーを調べて、ドブロクニクまで行けばいいよねくらいの感覚でいた私達に、レンタカー会社の窓口が告げた値段はえらく高かった。確か、4日間で500ユーロとかじゃなかったかと思う。
ボッタクリのように思えるが、でも、もうドブロブニクのホテルも予約してある。行かないという選択肢は、ない。
「よし。なんとかしてくるよ」
二宮くんが、ここでふたたびの商社マンぶりを発揮した。
「ホテルのフロントデスクに相談したんだよ。そしたら、そいつが自分の友達がレンタカー会社やってるから連絡してやるっていいだしてさ。
まあ紹介料取る関係のオトモダチなんだろうけど」
そして、フロントロビーにやってきたそのオトモダチとの交渉の末、4日間で120ユーロのレンタカーが見つかった。
クレジットカードの写しを取るけれど、代金はユーロの現金で前金だという。そのくらいはなんでもない。
◇
「おっし、じゃあ、いくぜ!」
と、威勢よく運転席に乗り込んだ二宮くんが、即座に運転席から飛び出した。
「うわあ」
そう。マニュアル車だったのだ。
これまた、今はもう慣れてしまったヨーロッパあるあるだけれど、当時の私にはとても新鮮だった。
教習所以来だぞおいとブツブツいいながら、運転席に戻った二宮くんがグワングワン吹かし車をスタートさせた。
出発進行!
結局途中で私が運転を変わることになった。
クルマ好きの父親と昔のボーイフレンドがマニュアル車しか乗らないひとたちだったから、マニュアル車は普通に運転を変われる。
二宮くんの名誉のため、黙って助手席に座っていたけど、あまりのガクンガクンぶりと、ググっと下がる坂道発進の恐怖に、私のほうが音を上げてしまったから。
高速道路に乗って、ドブロブニクという看板をもとにただまっすぐ海沿いに行けばいい。そう思っていた。
突然、工事で通行止めという標識がでてくるまでは。
EU加盟を前にクロアチアのあちこちで建設ラッシュが起きているようだった。
そう。ポーランドがそんな感じで変貌していったように。
突然現れた通行止め。
もちろん前を行く車はみなどんどんと下の道におりていく。私たちとて従うしかない。
そして、そんなときに限って。
ものすごく。
トイレに行きたい。
「そのへんで…ってわけ、いかんもんなあ」
男子二名は呑気に言い放つ。
ひどい舗装でガタガタの一般道を走りながら、とにかく左右に店らしきものはないかと目を光らせる。
と、コカコーラの小さな看板が目についた。
「あ、あれ、食堂かなんかかな」
運転者権限で、そういいながらもう車を路肩に寄せていた。
そして、飛び出すようないきおいで、私は、店に駆け込んだ。
「%^$%")("+@~><"!???」
同じくらいの年の頃。白いTシャツとジーンズ姿の、おそらく30代なかばの男性が、なにか話しかけて来た。
しまった、なんて返そうと思う前に、私の口からでたのは
「トイレット!トイレット!プリーズ!トイレット!」
◇
ふう…。
お兄さんがためらわずに厨房横の板張りのドアを指さしてくれたから、私はとりあえずの問題解決に専念できた。
簡素なシンクで手を洗いながら、さて、どうしようと思いつつ、ドアを開けた。
トイレのお礼に何かを買いたい。
でも車に残してきた男子をおいて食事するわけにいかない。
そもそも意思疎通ができそうにない。
かといって、ガムもお菓子も置いてない。
えーっと。
私は店内を見回した。
そこにはこれまたシンプルなテーブルと椅子が6セットほど。
そして厨房とつなぐところがカウンター式に空いていて、向こう側にキッチン設備が垣間見える。
その横に、長方体で四面がガラス張りになった、これまたコカ・コーラのロゴが上についた冷蔵庫があった。
でもその冷蔵庫の中身はコーラ缶ではなかった。
500ccのものや1リットル、大きめの2リットルサイズなど様々な大きさのペットボトルがみっしり縦横におかれていた。中身は明るい赤の液体。
残念。缶ジュースを買うこともできなさそうだ。
しかし、これ、なんだろう。
料理の材料かしら。
ん、いや、待て。
これ。もしかして。
ハンガリーの記憶が蘇った。
ヴィーノ?
ヴィン?
ヴァイン?
これまでクロアチアで食べていたごはんが、ほとんどイタリア料理という感じだったので、ラテン語系を並べたけれど、どうやらお兄さんが話せる外国語はドイツ語のようだった。
オーストリア=ハンガリー帝国。
いまならヨーロッパの歴史背景がつながってくる。
でも、何もわかっていなかったそのときの私には、ごはんがこんなにイタリアの影響を受けているのに、ドイツ語ということが、とても意外だった。
クロアチア語とドイツ語の二択。
こちらは日本語と英語の二択しかない。
ドイツ語はベートーベンの歌詞くらいしか知らない私。
そして、「君を愛している、君が僕を愛するように」というのは、どう考えても、この場面むきじゃない。
そのとき、眼の前に、テーブルの上の紙ナプキンが目についた。
これだ。
ぱっと紙ナプキンを広げ、そしてジェスチャーでペンがほしいと書く動作をすると、お兄さんがさっと青いボールペンを渡してくれた。
ワイングラスの絵を書いて。
冷蔵庫を指さして。
そして今度はお金の袋を描いて、「$、€、£」と書き込み、大きく「?」とつけたした。
そのワイン、売り物?
いくら?
ブンブン!
お兄さんが笑顔になって頷いた。
そこに書き足してくれた金額は覚えていないけれど
トイレを借りたお礼の買い物だったくせに、私はこのピクショナリーゲームが楽しくなってしまった。
そして、値段交渉することにした。
ケーキの絵を描いて、ろうそくを立て。
日めくりカレンダーのようにしたところに02-09。
そして自分を指さした。
あと3日で、私誕生日なのよ。
そして、お兄さんが書いた金額の横に、↓と矢印を書き足した。
だからちょっと負けてちょうだい。
お兄さんが、えええっと驚きの声を挙げた。
しまった、値切りやがってと思われちゃったかとあせった瞬間。
彼がペンを奪うようにして、03-09と書き足し、そして自分を指さした。
おれ、誕生日その翌日だぜ!
おおおおーーーーー。
私達はニコニコして握手してしまった。
バタン。
お兄さんは冷蔵庫のドアを開け、大きな2リットルのボトルを掴む。
そしてドンっとテーブルのうえに出し、手をシッシッというかたちに振り
「@_#(*$”」
といった。
訳はいらなかった。
「もってきな」だ。
◇
そんなわけにはいかないと、ポケットにあったユーロ札、たしか5ユーロを渡したと思う。
お兄さんは大慌てでもう一本ボトルを取りだして、歩き出した私にもたせてくれた。
「ったく、そのまま誘拐されたかと思ったぞ」
車の中の日本男児二名はそういった。
「なによー。だったら助けに来てくれるべきじゃん」と無駄口を叩きつつ、私は車を発車させた。そして、次々高速の迂回路に流れる車の列に入りながら、店内でのやり取りを話した。
二人は重いボトルをもちあげて、疑り深そうに覗き込んだ。
ふたたびルートに戻った私達は、ボスニア・ヘルツェゴビナの国境を越え、ようやく目的地ドブロブニクに着いた。
「ドブロブニクでは旧市街じゃなくて、島に行ったほうがぜったいいいわよ」そう友達カリーンが強く薦めたので、対岸にある島のリゾートを予約していた。
静かなビーチ、読書、おいしいごはん、こぢんまりしたホテルのバーで滞在客みんなが交歓する夕べ…離島の時間を楽しんだ。
「おお、ジャパニーズか。オレは船員だったからヨコハマやコーベに行ったことがあるぞ」というオーナーの話などを聞いたり、部屋でランチ支払いを賭けてUNOをやったり。
共学だったら修学旅行ってこんな風だったのかな、という気楽な時間があっという間に流れていった。
そして、島リゾート最後の日。
朝一番のフェリーで移動。城壁に囲まれた旧市街を探検にでかける。
旧市街を堪能した私達は、ドブロクニクをあとにし、ふたたびレンタカーに乗り込んだ。
と、途中。
きついカーブを曲がったところで、警察官に停められた。
「スピード違反です」
えっ。
正直、他の車の流れに沿って走らせていただけだから、全く意識していなかった。ナンバーでレンタカーあるいはエリア外と読み取れて、そんな他県ナンバーを狙っているような気がした。
「免許証と、パスポートを」
警察官は顔色変えずに違反切符を書き進める。
「あの、私きょう、誕生日なんです」
嘘はついていなかった。
あのワインの日から数日が経ち、その日は私の誕生日だったのだ。
「あっはっはっは。みんな大抵そういうんだよ」
警察官はそういいながらパスポートを開いた。
「え、今日、誕生日じゃない」
だから、さっき、そういった…のに…。
「チケットを書く前にいわないとだめだよ。もう書いちゃったから、誕生日プレゼントの免除はできないね。
ハッピーバースディ。
その坂を下りた村に郵便局があるからそこで支払っていきなさい」
そういいながら、ピンク色の薄紙を渡された。
いやはや、なんとも対照的な誕生プレゼント。
あーあ、と嘆きながらスプリトに到着した私たち。
違反金はきつかったけれど、それで誕生日の印象を終わりにしたくはなかった。
だから、ディナーは、宿の人に勧められた「絶対に行くべきだよ」という少し高級そうなレストランへ行くことにした。
その時食べたリゾットは、いまでも記憶に残っているくらい美味しかった。
まあ、誕生日の締めくくりとしては、悪くない。
そんなクロアチアでの、誕生日の思い出。
私の旅のこだわりは、「ひととの交流」と、そして「おいしい食べ物」につきるのだ。
◇
世界の人に聞いてみたさんのこの記事のコメント欄に触発されて書きました。
いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。 ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。